大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ロッキー・ザ・ファイナル

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ロッキー(監督:シルベスター・スタローン



あれから、もう30年になるのかと複雑な気持ちになる。
「ロッキー」(1976)、「ロッキー2」(1978)は、
封切り後、劇場で見た。
しかし、その後の「ロッキー」は見なかった。
見ようと思わなかったというのが、正直なところである。
「ああ、またか。なぜ?」と。

が、不思議なもので、
原題にない「ザ・ファイナル」という言葉が日本ではタイトルに追加され、
ロッキー・ザ・ファイナル」になっただけで、
逆に見てみたくなるものである。
「終わり」が明らかに意識され製作された映画は、
もう二度と見られないなにか大事なもののように思えてくる。

さて、またしてもあのテーマソングである。
ジャジャンジャーン、ジャジャンジャーン・・・
反射的に、映画の主人公が走るシーンがうかび、
同時にそれに同化して、
いつのまにか自分が走っているようなイメージを感じるメロディ。
いわゆる血がさわぐというのか・・・。
シーン(イメージ)とマッチした名曲か。
それとも、自分が単純なだけだろうか。

ロッキー・ザ・ファイナル」のストーリーは単純でわかりやすい。
「再挑戦」の物語である。
第1作目の「ロッキー」とちがうのは、
ロッキーが明らかに年をとり、過去を背負い、
老いを意識していることだ。
人生はバラ色じゃない、人生ほど重いパンチは無いと。
そして、ロッキーは、長い年月を経て栄光と挫折を味わい、
すでに背中に哀愁を感じさせるほど
いろいろな喪失も経験し、成熟していることである。
息子も自立し、父親から離れていく。
一方で、本当の自分の居場所はどこにあるのかみつからず、
孤独のうちに迷いつづけている。

人は年をとってもなお、自分の居場所をさがすものである。
いや、年をとってくるからこそ、いっそう過去の自分に思いをはせると同時に、
「これでよかったのだろうか」という一抹の悔いも含みながら、
「これが自分だ」と思える燃焼する行為やその居場所を
探し求めたくなるものだ。人生の仕切り直し・・・

ロッキー・ザ・ファイナル」は、
たしかに単純な「再挑戦」、「再生・復活」のドラマだ。
生きるとは自分との闘いだ、あきらめるな、前を向いて歩けという
勇気、情熱、希望・・・
主人公の言葉が、少し説教くさく感じられるほどメッセージ性の強い映画である。
しかし、ありえないであろうこの「復活」のドラマを見終わって、
私は、単純に爽快感を感じた。
そして、つい自分と重ね合わせてしまった。
この映画は、ロッキーという一人戦士(ヒーロー)の奇跡の「物語」である。
ありえない物語だからこそ、夢であり、伝説であり、神話なのだ。

主題は、もうひとつあった。
誰でもジジイになるのである。
「やい、爺さんよ!」「お前もそのうち言われようになるぞ」

ロッキーが走っていたフィラデルフィア美術館前は聖地だ。
ラストシーン、人々がこの聖地につぎつぎ来て喜び、
片手の拳を高く突き上げるガッツポーズは、まったく自然だった。
元気とエネルギーをロッキーからもらっているのである。

映画はストレートで単純だが、ロッキーは
「内なるロッキー」として、多くの人の心の中に深く残るにちがいない。
スタローンのみごとな挑戦に、拍手!