大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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生きる

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「生きる」(監督:黒澤明・昭和27年) 東京・テアトル新宿にて
 (画像は、保存してあったリバイバル当時のプログラムの表紙)




「生きる」は、リバイバル時の昭和49年(33年前)に、はじめて観た。

今回、東京の映画館で黒澤明監督特集を開催していたので、再び観る。


「もっと生きているうちにしなければならないことが沢山ある。
僕はまだ少ししか生きていない。
「生きる」という作品は、そういう僕の実感が土台になっている。
この映画の主人公は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。
いやこれまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。
そして、残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。
僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたいのである」
黒澤明は語っている(リバイバル当時のプログラムから)


冒頭に主人公の胃のレントゲン写真が映る。

そして、ナレーション。
「これが、この物語の主人公である。しかし、いまこの男について語るのは退屈なだけである。
なぜなら、暇をつぶしているだけだ。彼には生きた時間がない。
つまり彼は生きていないからである。」
・・・・・
「だめだ! これでは話にならない。これでは死骸も同然だ。
いったいこれでいいのか! この男が本気でそう考えだすためには、
この男の胃がもっと悪くなり、それからもっと無駄な時間が積み上げられる必要がある。」

リバイバル当時、このナレーションの部分は気にならなかった。
しかし、あれから30余年、自分もそれだけ年をとった。
いま、改めて観てみると、
このやや説教くさく、皮肉が入りまじった手きびしいナレーション、
少し言い過ぎではないのかとさえ感じる。
これらの饒舌なナレーションは、なくてもよかった。
むしろ、ない方がよかったと思う。

たしかに、上の黒澤明監督の作品の着想の延長線上に、
ごく自然に生まれてくるナレーションである。

「無意味な生きかた」、「あわてて立派に」、「人間の軽薄から生まれた悲劇」、
「いまこの男について語るのは退屈なだけ」、「死骸も同然」・・・
痛烈な官僚主義・役所への批判もある。
が、少し、シニカルで傲慢な人間観も感じられる。

このとき、黒澤明、42歳。
働き盛りで、自らの老いと死をみすえ、
身近に実感できる年代ではないのかもしれない。
このドラマも、現実を素材にしたというよりも、
ある観念が先行し、それをストーリー化しているという感がなくもない。

映画は、年月を経て再び観てみるとふしぎなもので、
受け取り方がかわってくる。

誰も、惰性に流されるようなそんな生き方をしたいはずがない。
「人生の意味」や「人生の目的」を真剣に考えることなく、
ただ、忙しく同じようなことを繰り返し、毎日を送らざるをえないのが、
現実である。
一方、惰性で生きているようにみえて、一人一人の生きたドラマと歴史は、
背景としてしっかりと刻まれる。
職場や仕事の内容に変化がなくても、
人間が生きている限り、職場外の日常の生活の場でも、
思いがけない出来事にさらされ、ハプニングの連続である。


しかし、この「生きる」はまぎれもない傑作であり、感動作である。
印象に残る数々の名シーン。むだのない画面と心理描写。
回想による巧みな構成
室内の暗い画面と屋外のコントラストの強い画面の対比。
効果的な音楽と歌。
電燈、ブランコ、グラス、書類、帽子など小道具の使い方。
2時間余をあきさせずひっぱるストーリー展開。
死と生の問題をここまで正面からとりあげた作品は、けっして多くない。

人はいつかは死ぬ。それもたった一人で。
死を前に生を確認した人間にとって歌は、重要である。
そして、夕焼けをはじめとして風景・景色が美しく見えてくる。
生きていることのいとおしさと、いま生きていることの確認。

この映画は、いろいろなことを教えてくれる。


さて、はじめてみた観たときは、見過ごしてしまったが、
今回、改めて重要だと思ったシーンは、
主人公が喫茶店で、
田切トヨ(みき)にその「元気と生き生きしているなぞ」を問い、
その後の展開のシーンである。
ぜんまい仕掛けのうさぎがテーブルで動く。
その動いているうさぎを、主人公が目を輝かせて、じっと見つめる。
トヨが町工場でつくったこのうさぎも生きている。
そして、生きることによって、全国の赤ちゃんを喜ばせている・・・。
主人公は、
「人のために役立つ仕事をすれば、生きる喜びが味わえるのでは」
(自分にもできること、いや自分にしかできないことがある)と思いあたり、
田切トヨ(みき)から別れ、一人、階段を急いで下りていくシーンである。
茶店の奥からは、「誕生の歌」が聞こえる。
新しい生きかたの誕生であり、気づきによる転回である。


そしてもうひとつ、ラストシーン-。
橋の上で、遠く、夕焼け(沈みゆく太陽)の美しい風景をみ、
もう一方で、下の公園と子どもたちをあたたかく見守る主人公の姿がある。

あの有名な雪が降る公園でのブランコのシーンよりも、
上の二つのシーンが、今回は、私にとってはより印象に残った。

それにしても、志村喬のまなたきもしないうるうるした瞳、
小田切みきのくりくりした瞳には、抵抗なく惹かれてしまう。



私の身近にいた知人も、つい3年前にガンで亡くなった。
公園で、車椅子にのりながら、若い頃よく唄っていた歌を、
少しせきこみながらも、一生懸命うたっていた。
亡くなったのは、その2週間後のことであった。
この映画をみると、そのことを思い出す。