大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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殯の森  (2)

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殯(もがり)の森 (監督:河瀬直美) 目黒シネマ 



タイトルの殯(もがり)とは、映画によると、
敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと、
また、その場所の意 語源に「喪あがり」喪があける意、か。という。


もう少し、くわしく調べてみると。
殯とは、古代日本の葬祭の儀礼・習俗で、アラキ(荒城、荒木)ともいうらしい。
アラキはアライミ(荒忌み)と同根。
「仮」の意が含まれている。一説には「喪あがり」という意味で、
今でいえば、喪中から忌明けに相当する。

古事記』『万葉集』では「大殯」「殯宮」と書いて、「アラキ」とよむ。
高貴な人の本葬をする前に、棺(ひつぎ)に死体を納めて仮にまつることで、
またはその場所のこと。遺族はある期間を仮小屋(喪屋)でこもった。 
別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願い(魂(たま)呼び)つつも、
死を確認することも兼ねていたといわれている。
死は、死体の白骨化で確認したらしい。
この殯は、3世紀の日本を描写した『魏志倭人伝』に
倭人の習俗として出てきているというから、かなり古くからあるようだ。
6世紀には、天皇が亡くなると殯宮(もがりみや・あらきのみや)(喪屋)が建てられ、
その庭で、慰霊のために泣いたり、誄(しのびごと)(霊を慰撫する追悼の言葉)を述べたり、
「遊部」(あそびべ)という古代の葬送儀式にかかわる呪術集団により、
歌舞音曲や酒食を奉じて死霊を安らげたりするようになった。
この期間は死者の霊がケガレたものから浄化される過程と考えられていた。

なお、殯の終わった後は棺を墳墓に埋葬した。
長い殯の期間は、大規模な墳墓の構築に必要だったともいわれている。
殯の儀式は大化の改新以降に出された薄葬令によって、
葬儀の簡素化や墳墓の小型化が進められたことや
仏教とともに日本に伝わったと言われる火葬の普及もあり、急速に衰退した。



さて、映画「殯の森」である。

映画は、美しい風景と茶畑の道の葬列から静かに始まる。
しばらく、ドキュメンタリータッチの映像と音響がつづく。


二人がスイカをいっしょに食べるあたりから、
しだいに、二人の心が通い始める。
心に欠落と喪失をかかえたものどうし。
以後、私はこの映画を涙なくして観れなかった。

そして、森の中へ、さそわれるように二人は行く。
亡き妻の魂を求めて。
二人の手に手をとった「道行き」。
ふりしきる雨の中、
介護士の真千子にとって、認知症のしげきは、
自分の亡くした息子にも思えてくる。
思わず「行かないで」と叫ぶ。
また、しげきにとって、泣きさけぶ真千子は亡くなった妻のようにも思え、
いとおしくなってくる。
思わず、互いになぐさめあい、暖めあう。
「だいじょうぶだよ」「もう、いいんだよ」と。
やがて、静かに、一夜があける。
しげきの思いに答えるかのように、
亡き妻の霊が、しげきの前にあらわれる。
しげきと亡き妻とのダンスシーンは美しい。
しげきは、ようやく、妻が眠っている木の墓標(塔婆)をみつける。
墓標のもとに穴を掘りはじめる。
なんとか亡き妻の魂にふれたい。思いを伝えたい。
リュックから、妻が亡くなってから妻への思いをつづったノートを出し、
そこに、埋めようとする。
もう、ノートはいらない、
亡き妻は、自分のすぐそばにいるのだから。
しげきは疲れ果て、大地に伏し、やがて安らかな眠りに入る。
その横で、真千子はリュックに入っていたオルゴールを鳴らし、天にかざす。
自分の亡き息子に聴こえるように。
真千子のそばにも、きっと亡き息子がいる。



祈ること、思うことは、近づき、ふれあうことである。
道行きは、霊や魂に近づくために山を尋ね、死者の魂を求めて、魂を呼ぶためであった。
山は霊のすみかと昔からいわれていた。
道行は、祈りと呪的行為だった。
日帰りではなく、旅宿りすることによって、
ここに来たと霊によびかけることによって、霊をよびおこす。
亡き霊があらわれ、また自分の中に霊と魂が宿る。
それぞれの生命の復活のために、一夜を寝るのである。 
そして、病み臥するように地に伏せることによって、
大地の霊に接し、そこに眠る亡き人を思い、しのぶ。
死者への追憶と鎮魂。


観終わったときは、すばらしい作品だと思った。
しかし、少し時間がたってから、静かに考えてみる。

あまりにも美しすぎる風景。
「美しい風景」といえば、
かつてCMの世界では、古くは、
「日本再発見」(ディスカバージャパン)があった。
どこか、人工的な演出された世界。
既成の絵葉書のような、CMに出てくるような、
演出された日本の「自然」と「美しい風景」を感じる。
そして、「森」といい「原生林」といい、
既成の観念というかイメージがある。
そして、ほかの映画かどこかで観たシーン。既視感。

いろいろな疑問がわいてきた。
なぜ、「森」でなくてはいけないのか 
むしろ、日本人の感覚にとっては「山」だと思う。
「死ねば魂は山に登って行くという感じ方が、今なほ意識の底に潜まっている」
柳田國男
そして、本来、亡き人との魂の交流は、奈良でなくてもよい、
なにも原生林でなくてもいいはずである。
しかし、この映画は、「森」の観念やイメージからまず出発した感が強く、
物語は、生と死に対してどこか楽観的であり、切迫感に欠けている。
映画を観た人の想像力にまかすというより、
監督のこだわりの観念とイメージが先行しているような気がする。


人物の描写と自然の描写の深さは並行している
人物の設定と人物像の掘り下げが浅く、甘ければ、自然の描写も甘くなる。
監督には、主人公にみられた「痛み」を感じることはできない。
不慮の死により残された遺族の思いは、
森によって癒されるといった単純なものではない。
昔ながらの原生林、森の恵みの物語、「森」の存在にこだわれば、
人物は消えていく。
人物は、ただの森をひきたたせるだけの装置にすぎなくなる。

しかし、その映像感覚はすぐれたところもあり、今後の活躍を期待したいと思う。


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不慮の死により残された人の心には、
「思いがけない」、「思ってもみなかった」という「不慮」というだけで、
逝った者の記憶が、強く、心の傷とともに生きている。
常にそばにいるのである。
ともに生きているといってもいい。
喪の作業は、ずっとつづく。

魂のメッセージと光は、天や空からもあるはずである。
亡き魂は、森から空に昇っていき、きっと風になっている
生命の動きはどこにもある
身近な、庭でもよい、木や葉の動きをみる、
単なる道端でもいい、なにげない自然の風景をみて、
いのちの営みを再発見し、
その中に亡き人の魂と
そこから来る光を感じる。
雄大な風景でなくても、森でなくても、
小さな光景であっても、
感じる心さえあれば、美しく見えるものである。
それが、残された人の癒しともなるのである。
風はどこにいても感じることができる。
虫や水の音は、鳥の声は、どこにいても聞くことができる。
そこに、亡き人の魂や霊とメッセージを感じる。
そして、いつもそばにいて守ってくれていると。





→書庫「鎮魂ノート」メモ(5)柿本人麻呂


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