大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ALWAYS 続・三丁目の夕日

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「ALWAYS  続・三丁目の夕日」(監督:山崎貴 原作:西岸良平




石原裕次郎は「嵐を呼ぶ男」で、ドラムをたたいていた
映画館は二本立て、三本立てが多かった
東映の時代劇
立ち見することもあった

テレビが普及し出したのは、
皇太子(今の天皇)ご成婚の昭和34年ごろからだったと思う
私の家には、テレビが入ったのは、昭和35年のことだった
それから、親が少したって青とピンクの薄いスクリーンを買ってテレビの前につけたり、
拡大レンズが少し入ったスクリーンをつけたりした
画像がカラーにみえたり、大きくみえたりするのがうれしかった
食堂やテレビを持っている家に集まり、遠慮しながら見るのではなく、
自分の家でテレビ見れることがうれしかった
そしてテレビで、外国のテレビ番組などがみれるのが、ふしぎだった
新鮮だったし、見れるものにみな驚いた
テレビの休み時間には、時計のようなテストパターン?が表示された

羽田空港は、社会見学(遠足)で行った
まだ、プロペラ機の時代だ
そのとき、羽田空港では映画のロケをしていた
いまでも、ロケを見たことが記憶に残っている
昭和33年、34年
東京タワーは希望のシンボルだった
333m(332.6)という数字は、忘れない
特急こだまにもあこがれた
当時のデザインはいまでも覚えている
こだまは、スピードとその後の高度経済成長のさきがけだった

このころは、風呂が家になかったから、父親と銭湯に行った
銭湯には、下駄で行った
湯船の背景は、いかにも絵という感じの富士山と海の景色だった
銭湯の洗い場で歌を唄う人もいた
近所のおじさんも来ていた
映画のように、入り口付近にベンチがあった
そこで夕涼みをして、さっぱりした記憶がある
今考えると、銭湯は近所の人とのコミュニケーションの場だった
当時は、人と人の距離が近かった

たらいでの洗濯からローラー式洗濯機に変わった
しぼるのにけっこう力が必要だった
子どもが親の手伝いをするのが当たり前の時代だった
ちょっとした買い物はしょっちゅうだった
氷屋さんに氷を買いに行ったこともある
映画に出てきたランニングシャツ姿、
当時の、夏の男の子の一般的なスタイルだった
大人も家の近所ではランニングという人も多かった

駄菓子屋も、あちこちにあった
いつも、近所の子どもがたまっていた
お好み焼き、袋や穴をあけるくじ、舌に色がつくかき氷、・・・
いまのような「ガチャガチャ」はなかった
駄菓子屋のおばちゃんの顔は、いまでも記憶にやきついている
店の奥にちょっとした小部屋があって、
子どもたちのたまり場、遊び場として、開放されていた

男の子の遊びといえば、
メンコやビーだま、チャンバラごっこカンけり、竹馬、紙ヒコーキなど
既成のおもちゃで遊んだことはほとんどなかった
手づくりが多かった
野球ブームとともに、道でキャッチボールをした
当時は、何よりも子どもたちが群れて道や空地で遊んでいた
年齢は小学校にまだ上がっていない子から中学の1年生ぐらいまで
一団となって遊んでいた
年長のものが順番にリーダーとなって、年齢が下の子のめんどうをみた
子どもの世界にも、タテのつながりがあった

遊び疲れると、それぞれの家の縁側を中心に、おしゃべりして休んだりした
(映画にも出てくる)縁側は、道とつながった大人たちの社交場でもあった
誰もが気軽に立ち寄れる、外と内のちょうど境にあるような公共スペースだった
道が、子どもの遊び場として、大人の立ち話の場として生きていた時代だった
道にはときどき、チンドン屋さんが練り歩いていた

昭和34年ごろか、その道を車が少しずつ走るようになった
ときどき来ていたロバのパン屋さんや紙芝居屋さん、キャンデー屋さんなどの
物売りは、いつのまにか消えてしまった
ラッパを吹きながら、「とーふぃ」と大きな声を出し、
通りをゆっくり走りまわっていた自転車の豆腐屋さんも
外からよびかける人の声や音楽が消えていく

しだいに、通る車やスクーター(バイク)の台数が増えていった
そのため、道で遊んでいても、
前や後に、注意を払わなければならなければならないようになった
車がくると、遊びがそこで中断してしまうのだ
やがて、道は舗装された
そうこうしているうちに、子どもたちが道で遊ことが少なくなった
そして昭和40年代には、その道で遊ぶ子どもは、誰もいなくなった
道で、立ち止まっておしゃべりする大人も少なくなっていった
家々から縁側が少しずつなくなっていった
通りにあったベンチも、少しずつなくなっていた
原っぱや空地も、ちょっとすました感じの公園になってしまった
家々の庭の一角が駐車場になった

集団就職による「住み込み」という形で働いていた人を、近所で見かけた
会社や店の人が親がわりだった


やがて、くらしと環境は大きく変化していった

野球盤、ゴジラ、24色色鉛筆、給食、ももの花ハンドクリーム
16ミリ映写機、アイスキャンデー屋さん、ミシン、牛乳びん
裸電球、ミゼット、模型飛行機、色紙によるかざり、万年筆、
ランドセル、竹馬、べーごま、チンチン電車
げた、タバコ屋のおばさん、買い物かご
足のあるテレビ、トリスのびん、林家三平の「どうもすみません」・・・・
どんなに、なつかしいグッズを集めても、
単なるコレクションかノスタルジアで終わってしまう

でも夕日をみると、どこかなつかしい気持ちがわいてくる

「昭和」が もう、なつかしくレトロな時代になった
しかし、「昭和」は30年代だけではない
昭和30年代になるまでにも昭和があり、
激動の時代といわれた昭和40年代だってある

変わったもの、変わらないもの、
変わってほしくないもの・・・
そして、朝日はどこへかくれたのだろうか



遠くから夕日のように眺められたミニチュアの三丁目の世界や時代だとしても、
そこに生きた人々が、あたたかく、またいきいきと描かれた映画である。



・・・