大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「赤とんぼ」

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「赤とんぼ」
作詞:三木露風、作曲:山田耕筰


夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を 小籠に摘んだは まぼろし

十五で姐やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた

夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先





この歌は、日本の童謡のうち最も人気があり、
日本人の郷愁を誘う歌とされている。

三木露風は、晩年次のように書いている。

「赤とんぼのこと」三木露風
「これは、私の小さい時のおもいでである。「赤とんぼ」を、作ったのは大正十年で、處は、北海道函館附近のトラピスト修道院に於いてであった。或日午後四時頃に、窓の外を見て、ふと眼についたのは、赤とんぼであった。静かな空気と光の中に、竿の先に、じっととまっているのであった。それが、かなり長い間、飛び去ろうとしない。私は、それを見ていた。後に、「赤とんぼ」を作ったのである。関係のある『樫の實』に発表した。
 家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の廣場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た。そのことをおぼえている。北海道で、赤とんぼを見て、思いだしたことである。
 大分大きくなったので、子守娘は、里へ歸った。ちらと聞いたのは、嫁に行ったということである。山の畑というのは、私の家の北の方の畑である。
 故郷で見た赤とんぼに就いて云うと、あれから何年もたって、小学校へ行くようになり、通学したが、尋常小学校への道では見なかったが、高等小学校へ進んでからの通学の道では、あれは何という赤いきれいなとんぼだろうと、思ったことである。
 私が今住んでいる處へも、その時になると、どこからか、毎日赤とんぼが、庭え飛んでくるのである。
 とんぼは前段に書いた如く、頭が大きいのが、特色ではあるが、そのほか精巧である。長身にて、四枚の羽、六本の足、そうして、その羽は透いている。飄々として、處定めず飛んでいる虫である。」
(昭和34年7月15日付「森林商報・新69号」)


この詩は三木露風が北海道函館附近のトラピスト修道院で講師をしていた頃、
幼少時代に見た赤とんぼの風景を描いたものとされている。
大正10年、『赤蜻蛉』と題して「樫の実」に掲載され、
昭和2(1927)年に、山田耕筰によって作曲された。


三木露風は明治22年6月に兵庫県龍野町(現龍野市)に生まれた。
露風の母は、明治5(1872)年、現在の鳥取市に生まれ、
15歳で兵庫県龍野の名門三木家へ嫁ぎ、二児に恵まれるが、
露風が満5歳の時、父は家を空ける日が続き、
散財を重ね酒におぼれた父と離婚、母は家を出る。
露風は跡取りとして、祖父の家に引き取られた。
母は必ず家に戻ってくると幼い露風は信じていたが、
母はその後上京し、新聞記者と再婚する。
激動の近代日本を背景に、女性の自立にめざめた母・碧川かたは、
大正から昭和にかけて、女性参政権運動に加わり、
女性の地位向上に生涯を捧げた。
「赤とんぼ」が国民的愛唱歌になり、
露風の母は「赤とんぼの母」と呼ばれるようになったという。



この詩は「母」という語句を使わない母恋いの詩であるという説があるが、
私には、むしろ「母恋い」をのり越えた追憶の詩だと思う。

三木露風 赤とんぼの情景」(和田典子 著)によると、
再婚した母の一家は明治41年上京していて、
当時、東京にいた露風は、この頃から母を訪ねるようになったとされている。
この「赤とんぼ」を発表したのは、
北海道のトラピスト修道院に赴任した大正9年の翌年の10年で、
このころには、すでに母との交流がすすんでいたものとみられる。


さて、この詩は、4番から始まる。
大人になった露風が窓の外を見ると、
竿の先に赤とんぼがじっととまっていた。
それを見たとき、幼時の記憶が次々とよみがえってきたのである。

静かな空気と光の中に、竿の先に、
じっととまっている赤とんぼを露風は見ていた。
おそらく、飄々として、ところ定めず飛んでいたが、
その後ひとりで、じっととまっている赤とんぼに
露風は自身の姿を思ったのかもしれない。

母とも連絡をとりながら、結婚(大正3年)を経て、
露風の中でいままでの孤独感と不信やうらみ、つらみを超えて、
過去を静かに追憶するまでになったように感じる。
ここには幼児から少年時代の母へのはげしい思いはない。
静かに故郷や幼いころの自分を思い出し、
それを澄みきった心で見る境地がある。
露風の過去との和解による心の浄化というものを感じる。

この詩を発表した翌年の大正11年、露風夫婦とも洗礼を受けている。

母の帰りを思い続けた日々と、
故郷のあの空、山、谷、畑、夕焼け、池などの情景が、
いまや幻として追憶されている。

4番は現在というポイントに立ち、
この歌をひきしめているといえる。
4番(現在)から出発し、
過去をまず時間的に1番にさかのぼり、そして2番、3番へとつづき、
また、4番の現在にもどる

実は、すでに竿の先にとまっている赤とんぼのモチーフは、
この詩がはじめてではない。
露風が明治34年、満12歳のときに
「赤蜻蛉とまってゐるよ竿の先」という俳句をつくっている。
いま、北海道でとまっている赤とんぼをみて、
竿の先にとまっていた赤とんぼを見ていた少年時代をも思い出すという
二重構造になっている。
赤とんぼの羽から透けて見える赤い夕焼けのなつかしい故郷の風景、
これは、絵画的ともいえる。

さて、1番の詩は、最初「樫の実」に発表された当時は
「夕焼、小焼の、山の空、負われて見たのは、まぼろしか」だったそうだ。
まず、西の山の空の夕焼けを見たのだろう。
その後、詩集「真珠島」では、
「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」となる。
この変化は、主題を「赤とんぼ」にしぼり、
4番とのリンクを強めるためだったのだろうか。
「追われて」ではなく、「負われて」だった。
子守娘に背負われたのは、おそらく1歳余までだろうから、
西の山の上が夕焼していて、
草の広場に赤とんぼが飛んでいたのを見たというのは、想像であろう。
しかし、実際に背負っていたのは姐やかもしれないが、
露風の気持ちとしては、本当は母であってほしかったのかも知れない。
姐やのうしろには母がいる・・・。


2番も「山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、いつの日か」と
なっていたのが、
「山の畑の 桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか」と
改稿されているという。
むしろ、露風にとって、「まぼろし」というよりも、
きっと、こちらのほうが事実として鮮明に記憶していたと思う。
満6歳で別れた母はまた帰ってくると思っていた少年、露風は、
谷で木の実を拾い、母の帰りを待つのであった。
露風は、後年「一い、二う、三いと梅の実を、かぞへて待ったは何時のこと」と
ある詩の最終行に入れ、故郷の思い出として胸にあるとしている。
また、「桑の実の黒きをかぞへ日数経る」という句を、
7歳のときのものであるとしている。
この1行に、当時の露風の母を待つせつない思いがこめられていたのである。
露風にとっておそらく、
母と過ごした幼い日々の記憶の断片は、淡い幸せな思い出として、
また、母が帰ることを待っていた日々はつらく寂しいものとして、
はっきりと記憶に残っていたにちがいない。
しかし、いま(この詩の当時)は、かなりの年月を経ているので、
あえて「まぼろし」に変えたのだろう。


さて、3番に出てくる姐やは子守りの少女である。
貧しい農家などが口減らしのために、7,8歳から12,3歳くらいの娘を、
他郷の比較的裕福な家に年季をかぎって住み込み奉公させたという。
18世紀後半から子守りを専業的に担う守り子の群れがあらわれ、
明治の終わりごろまで、紀州や京阪地方、九州などで行われていた。

姐やと夕焼けは、実は結びつきが深い。
夕焼けのなかで赤ん坊を背負った守り子たちが群れをなして、
原っぱや広場や田んぼのあぜや丘にたたずみ、
守り子唄(五木の子守り唄など)を歌う光景は当時は一般的だったそうだ。
守り子は故郷や親とも離れ、
見ず知らずの村や町の主人に奉公するよそ者であり、流れ者である。
それだけに孤独な群れは歌うことにより連帯意識を深め、自らをなぐさめ、
また母を恋い、故郷を思う。
夕焼けをみて、あの山のむこうに自分の故郷がある、
早く子守り奉公を終えて、
海山越えて母と父の顔を見たいと願ったにちがいない。
はるかな故郷の親への思いに身を焦がしながら、
守り子は捨て子のようなみずからの境涯に涙したにちがいない。
(「子守り歌の誕生」赤坂憲雄 著を参考にした)

赤ん坊だった露風はそんな守り子の背にいて、
夕焼けと赤とんぼを、いっしょに見ていた。
母や母代わりであった姐やへの思いと同時に、
きっと、この姐やに、父の不在の中、
満5歳で生き別れになった母と自分自身の姿を見ていたのではないか。
別れのあいさつも、理由も聞かされないまま、
露風は母と弟と別れたという。

その後、露風は姐やを通して母からの便りを聞いていたらしい。
姐やへが嫁に行って、姐やと母からの便りも途絶えた。
しかし、一方、守り子の姐やにとって、
嫁に行くことは、成長と自立へ向かう新たな旅立ちを意味する。
だから、「絶えはてた」という本来、絶望的で否定的な言葉には、
いま(この詩の発表当時)は母との関係も回復され、
長い時間的な距離を経て、むしろ肯定的なニュアンスさえ感じられる。
きっぱりと過去のこだわりと決別し、
新しい生き方への決意をここにみることができる。
喪失の確認は、一方で成熟に向かう。

この詩がどこか、
郷愁をかきたて、幼き日の追憶の原風景をイメージするとしたら、
ひとつには、それぞれの最後の語句にあると思う。
「いつの日か」、「まぼろしか」、「絶えはてた」とつづき、
「竿の先」で閉められている。
竿の先にとまっていた赤とんぼを通して、、
時間的にはずっと赤子にまでさかのぼり、
そして空間的には大きな広々とした情景にまで広がり、
幻となってしまった故郷や原風景に集約される。
すでに過去となり、けっして戻ることはない幼いときや少年時代の日々。

そして、「夕焼け」である。
日がしずむ風景は、1日の終わりを美しくかざる。
夕焼けは、過去を静かにふりかえることができる原風景となる。


しかし、理くつはともあれ、
「赤とんぼ」は,その詩と抒情性のあるメロディにより、
日本の名曲中の名曲といっていいと思う。






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