大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

タルコフスキー語録 (5)

イメージ 1

「映像のポエジア」(キネマ旬報社)より(2)



現代人の大衆文化、消費者のために用意されたまがいものの文明は、
人間が魂を治癒しようとするとき、
人間存在の本質的問題をに向かおうとしたり、
あるいは自分自身を精神的なるものとして、自覚しようとするときに、
そこに至る道を、遮っているのである。


時間がなければ、記憶もまた存在しないということは、
まったく明らかである。
・・・・
記憶を欠くと人間は、虚妄の存在のなかに囚われてしまい、
時間から脱落し、自分に固有な外部世界との関係を確立することができなくなる。
つまり、彼は狂気を運命付けられてしまうのだ。
人間は、精神的な存在であり、同時に、記憶も付与されている。
・・・記憶はわれわれを弱点のある苦悩することが出来る存在にするのだ。
・・・人生というのは、人間に割りあてられた期間に他ならない。


過去はある意味で現在よりもはるかにリアルである。
あるいはどのような場合であれ、より安定した、揺るぎないものなのだ。
現在は、指の間からこぼれる砂のように、滑りおち、消えていくのだ。・・・
時間はその痕跡を残さずに消えることはできない。・・・
われわれによって生きられた時間は、
時間のなかによこたわる経験としてわれわれの魂のなかに積もるのである。


・・・・・・
母がたって、手招きしている、
そばにいるみたいなのに、すぐそばまでいけない、
近づいたかと思うと、七歩先に立って、
手招きしている、近づいたかと思うと、
七歩先に立って、手招きしている。
・・・・・
母がきた、手招きをした-
そして飛び去っていった・・・
(アルセーニー・タルコフスキー<父>の詩)
そして、これがこの詩との係わりで私がずっと昔から夢見てきたイメージの流れである。
・・・・・・


イメージは非常に多くのことを意味しているので、
最終的意味を捉えることは不可能なのである。
・・・

古池や蛙飛びこむ水の音
雪ちるや穂屋も薄の刈の残し・・・
日本の詩人はたった三行(ロシア語訳では)で、現実にたいする関係を表現できた。
彼らは現実を観察しただけではない。
観察しながらその永遠の意味を、
せかせかしたり、あくせくしたりせずに、
呈示したのである。・・・・
観察は映画的映像の最も重要な基礎である。

イメージは、人生を意味づけたり、象徴したりするのではなく、
人生のユニークさを表現しながら、
具体化するのである。