タルコフスキー語録 (4)
「映像のポエジア」(キネマ旬報社)より(1)
映画の中に表明されている作家の世界感覚が、
観客にとっても、彼ら自身にとっても固有な、
だが単にこれまで明確にされえなかったなにかとして、知覚されうるのである。
そしてそのことが作品にとって大きな原動力となりうるのである。
対象についてすべてが語り尽くされていなければ、
さらに考える可能性が残る。
さもなければ、最終結論が観客に呈示されるだけで、
観客は思考をめぐらす必要がいっさいなくなる。
なんの努力もなく観客に与えられる結論など不要である。
思考が誕生するときの苦しみと喜びを、
作家と分かちもつことのない観客に、
作家は何かを語ることができるだろうか.
詩、それは世界感覚である。
現実にたいする関係の、特別な方法なのだ。
事件は、その日の全体を背景として、霧のなかの木のように際立っている。
・・・・対象や状況は、明確な輪郭を欠いた、
偶然的で不完全なものとして記憶される。
このような人生の感覚を、映画芸術の手段をもって伝えることはできるだろうか。
もちろんできる。それどころか、これこそ、
芸術のなかでもっともリアリスティクな芸術である映画に
なによるもふさわしいことなのだ。
詩という表現手段を使わなければ、
その真実を伝えることのできないような領域が、人生にはある。
・・・ここで私が念頭に置いているのは、
夢であれ、回想であれ、幻影や幻想にかかわるものである。
・・・・映画のなかで夢を撮影する必要性に直面したとき、
われわれは、夢の詩的具体性にいかにして接近すべきか、
夢をどのように、またどのような手段で表現したらいいか、
という具合に問題を立てなければならない。
現代人はどんな犠牲も望まない。
けれども犠牲だけが真の主張を表現する。
しかしわれわれはこのことについて徐々に忘れていき、
自分の人間的使命の感覚を規則的に失っていっているのだ。
啓示のように現れてきた、世界の感覚的に知覚されたイメージに比べたら、
その思想はつまらないものである。
なぜなら、思想は短く、イメージは絶対だからだ。
美は、真理を探求しない者、心理を禁忌としている者の目には隠されている。
映画の中に表明されている作家の世界感覚が、
観客にとっても、彼ら自身にとっても固有な、
だが単にこれまで明確にされえなかったなにかとして、知覚されうるのである。
そしてそのことが作品にとって大きな原動力となりうるのである。
対象についてすべてが語り尽くされていなければ、
さらに考える可能性が残る。
さもなければ、最終結論が観客に呈示されるだけで、
観客は思考をめぐらす必要がいっさいなくなる。
なんの努力もなく観客に与えられる結論など不要である。
思考が誕生するときの苦しみと喜びを、
作家と分かちもつことのない観客に、
作家は何かを語ることができるだろうか.
詩、それは世界感覚である。
現実にたいする関係の、特別な方法なのだ。
事件は、その日の全体を背景として、霧のなかの木のように際立っている。
・・・・対象や状況は、明確な輪郭を欠いた、
偶然的で不完全なものとして記憶される。
このような人生の感覚を、映画芸術の手段をもって伝えることはできるだろうか。
もちろんできる。それどころか、これこそ、
芸術のなかでもっともリアリスティクな芸術である映画に
なによるもふさわしいことなのだ。
詩という表現手段を使わなければ、
その真実を伝えることのできないような領域が、人生にはある。
・・・ここで私が念頭に置いているのは、
夢であれ、回想であれ、幻影や幻想にかかわるものである。
・・・・映画のなかで夢を撮影する必要性に直面したとき、
われわれは、夢の詩的具体性にいかにして接近すべきか、
夢をどのように、またどのような手段で表現したらいいか、
という具合に問題を立てなければならない。
現代人はどんな犠牲も望まない。
けれども犠牲だけが真の主張を表現する。
しかしわれわれはこのことについて徐々に忘れていき、
自分の人間的使命の感覚を規則的に失っていっているのだ。
啓示のように現れてきた、世界の感覚的に知覚されたイメージに比べたら、
その思想はつまらないものである。
なぜなら、思想は短く、イメージは絶対だからだ。
美は、真理を探求しない者、心理を禁忌としている者の目には隠されている。