大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

タルコフスキー語録 (6)

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「映像のポエジア」(キネマ旬報社)より(3)  写真は「タルコフスキー・アット・ワーク」から




告白しなければならないが、
映画は音楽をまったく必要としていない、
と私は心の奥でひそかに信じている。
・・・・・
映画的映像を真に音楽的なものにするために、
音楽は捨てなければならないかもしれない。


私の主要な理念は、
世界はそれ自体ですばらしく響いており、
もしわれわれがしかるべくその響きを聞き取ることを習得していたならば、
音楽は映画にとってまったく不要なものとなったにちがいないということなのだ。


自由とは、人生やまわりの人々にはなにも求めず、自分にのみ要求し、
そして寛大に与えることを学ぶことである。
自由は愛という名の犠牲のなかにある。
・・・・・
現代の人々は、人間がいつの時代にも手にしていたあの自由を忘れてしまったのだ。
つまり、自分の生きている時代や社会にたいして、
みずからを犠牲にして捧げるという自由を。


私は、人間に<希望>と<信仰>を与える芸術の味方なのだ。


私の撮ったすべての映画において、つねに重要であったのは、
根というテーマ、つまり父の家、少年時代、祖国、大地とのつながりというテーマであった。
伝統や文化、人々や思想のどこに自分が帰属しているかを見極めることは、
私にとってつねに重要なことだった。


精神的危機-これは自らを発見し、新しい<信仰>を獲得しようとする試みである。
精神的危機の状態は、精神的問題を考えようとするものすべての宿命である。
どうしてそれ以外の形がありえよう。
魂は調和を渇望しているが、人生は不調和にみちている。
この不一致のなかに、
運動への刺激とわれわれの痛みと希望の両方の源泉が存在する。
われわれの精神的深みと、精神的可能性を裏づけるものがあるのである。


(「ストーカー」において)
ゾーンは人生だ。
そこを通る途中で、挫折する者もいれば、なんとか持ちこたえる者もいる。
人間がもちこたえられるかどうかは、
重要なものと過渡的なものを区別する能力と人間としての尊厳に依存している。


人間の運命は人間の手のなかにあるにもかかわらず、
この永遠なるもの、重要なものは、
たいていの場合、人間によって無視されている。
人間は幻の偶像を追い求めているのだ。
だがすべては最終的に、
人間の存在において唯一頼ることができるひとつの単純な基本要素、
すなわち愛の力に還元される。
・・・・
私の義務は、映画を見るものに、
自分のなかにある、愛する欲求、愛をささげる欲求を感じさせ、
美の呼び声を感じさせることだと考えている。