大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

タルコフスキー語録(了)

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「映像のポエジア」(キネマ旬報社)より(4)  



人類を滅ぼすことができる戦争の脅威が現実的なものとなり、
社会的貧困が最大限の衝撃を与え、
人類の苦悩が大声で祈りをあげるこの世界で、
必要不可欠なのは、お互いに結びつきあう道を探求することである。
これは自分自身の未来をまえにしての人類の聖なる責務であり、
個々人の責務でもある。


雨、火、水、雪、露、地吹雪、
これらは私が住んでいるあの物質的な環境の一部であり、
言ってみれば、人生の真実である。
それゆえ人々がスクリーンに愛着をもって再現された自然を見るとき、
彼らが単にその自然に愉悦するのではなく、
そこになにか隠された意味のようなものを見出そうとするというのを耳にするのは、
私にとって奇妙なのだ。


現代人は分れ道に立っている。
かれらのまえにはジレンマが立ちはだかっている。
新しいテクノロジーの揺るぎなき歩みと、物質的価値のさらなる蓄積に頼って、
盲目的な消費者の存在を続けるべきなのか、
あるいは、結局は、個人だけでなく、社会のためにも、
救いの現実になりうるかもしれない精神的な責任への道を探求し、見出すべきなのか。
つまり、<神>へ戻るべきなのか。
人間自身がこの問題を解かなくてはならない。


思索のなかでさえも、
人間は奇跡をあまり許容しようとしないし、
魔術的な力を信じようとしない。
・・・・
人間自身、彼の生きた道が人間の基準によって測られるのではなく、
神の手のなかにあるのだということを理解しなければならない。


私にとってもっとも重要な映画の基礎に、この伝説を置いた。
修行僧が、一歩一歩バケツで山に水を運び、
そして枯れた木に水を注いだ。
自分の行動の必要性を疑うことも、
創造者への自分の信仰が奇跡を起こすであろうという信仰を手離すこともなかった
それゆえに彼は奇跡を体験したのだ。
ある朝、木の枝が蘇り、若葉でおおわれていた。
だが、はたしてこれは奇跡だろうか。これは真理である。