大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

パンズ・ラビリンス (2)

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(1)よりつづく




しかし、実際のスペイン内戦(1936~1939)は、
この映画でみられるような
ファシズムビダル大尉=悪、怪物・究極の恐怖 ゲリラ=善」という図式だったのだろうか。
監督は「ファシズムは究極の恐怖を象徴、純潔の曲解、魂の死」というが。


一方で、スペイン内戦は、ソ連とドイツ・イタリア(ファシズム)の代理戦争で、
またスペインという場での国際的な左右のイデオロギーの対立でもあったともいわれている。

それぞれの陣営は以下のとおり(「スペイン内戦」川成洋 著から)

<人民戦線・共和国陣営> ←ソ連、国際旅団(義勇兵)が支援
アナキスト系(全国労働連合、イベリアアナキスト連盟)
社会労働党系(スペイン社会主義労働者党、労働総同盟)
反スターリニスト系(マルクス主義統一労働者党)
共産党系(スペイン共産党カタルーニャ統一社会党
*1937年、アナキスト系・反スターリニスト系と共産党系が
 政治路線で対立し、バルセロナで市街戦

フランコ叛乱軍陣営>←ドイツ、イタリアが支援、カトリック教会が支持
スペイン独立右翼連合
国家サンジカリスト攻撃会議
新スペインファラン党 


おそらく、
イデオロギーや党派・政治団体と直接関りのない数多くの一般の市民が、
両陣営にまきこまれ、選択をせまられ、
そして、あるものは銃をとることを余儀なくされたのにちがいない。

内戦の中で、フランスへのスペインからの避難民は数十万に達したという。
映画での少女の死は、これらの人々の心の傷と数々の血と死を暗示する。

残虐行為は、
フランコ反乱軍側だけではなかったらしい。
「敵に対する残虐行為は、フランコ叛乱軍だけの独壇場ではない。
恐怖が憎悪を生むと言うべきか、共和国側も叛乱軍と比肩しうるほど残虐だった。
とくに目立ったのは、カトリック教会の聖職者に対する殺害であり、
一九三六年七月十八日から九月一日まで、
約七万五千人の聖職者が処刑ないしは殺害されたという。
まだマドリードでは、ソ連を手本にして、
叛乱軍シンパを摘発する「チェカ」という二百二十七支部におよぶ検察組織が存在し、
即席裁判で判決を下し、処刑していた。・・・・・ともあれ、
内戦期のスペインは
干戈(かんか)を交える両陣営とも怒りと憎しみを存分に発揮する
殺戮の場となっていたのである。」(「スペイン内戦」川成 洋 著)

映画でも、自分の息子をさしだす大尉を、
自らの手で死なさず簡単に射殺するゲリラの姿が描かれている。

戦争が生む復讐と憎悪、怨恨。
特に、左右の勢力にかかわらず、世界を一色にぬりつぶす世界観は、
体制の維持のために思想の統一・統制・純潔・独裁を生み、全体主義的になり、
監視と密告機関、スパイ恐怖症、自由・異端の排除にのりだす。
その中で権力をにぎった者は、残酷になることもあり、
それがまた快楽になることもある。
(映画のビダル大尉にも少し感じられる)
世界の一元的支配、
そして閉鎖主義は、戦争をうみ、戦争終結後も怨恨と憎悪を残す。


この映画は、ファンタジーの手法をかり、
少女の死と再生を通して、
スペイン内戦、戦争という時代に生きた人々の哀しみをみごとに描いた傑作である。
そこには、スペイン内戦で亡くなった人々への鎮魂がこめられていると思う。
子守唄 ・・・・ ・・・ ・・・・ ・・ ・




さいごに<澁澤龍彦語録> その著作から

「螺旋は「一つの救済」、「無限の再生」を保証する。」
「前進的な力が枯渇し衰えたとき、生命はなおも存続しようとするならば、
それ自身の深さのなかに潜入する以外にはないだろう。「母たち」の国へ降りてゆき、
ふたたび、光のなかの生命を取りもどす前に、
まず闇の経験を積まなければならないのである。
人間の再生は、
以前の存在の一部分を死なしめることによってしか、可能とはならないのである。
だから螺旋とは、ふたたび生きるために死ぬこと、もっぱら復活のための死を意味するのだ。」
「再生の象徴という点では、蝸牛と螺旋とはまったく同じなのだ。
螺旋の道によって象徴された深淵への降下は、
おそらく中心の探求であろう。それは、自己の探求、
あるいは宇宙感覚の探求と言い換えても差し支えあるまい。
この探求は、ほとんどつねに死を含み、
この死は、ほとんどつねに再生を伴うのである。
だから螺旋は、死と再生を実現しながらたえず更新される人間精神の活力の表現である、
ともいえるのだ。」
●「胡桃の中の世界」の中の「螺旋について」から


「古い動物のシンボルが依然として死に絶えていないという証拠は、
深層心理学によっても提出されているけれども、
私たちの周囲に見られる子どもの反応こそ、
その何より大きな証拠であろうと私は考えている。
動物園を喜ばない子供はいないし、動物の擬人化を好まない子供はいないのだ。
かりに現在、私たちの動物に対する関係がよそよそしいものになっているとしても、
かつては私たちの誰もが、
動物に対する生き生きした衝動を感じていたはずなのであり、
私たちはこれを、ただ意識の深層に抑圧しているだけのことなのであろう。」
●「胡桃の中の世界」の中の「動物誌への愛」から


「砂時計や水時計においては、時間は物質的なイメージによって表象されていた。
機械時計においては、しかし、そのような具体的ないイメージは何もない。
時間の具体的な表象は影も形もなくなり、雲散霧消したのである。
だから機械時計はひたすら虚無を計算し、虚無を記録しているのである。
この虚無はもしかしたらユートピスト自身の虚無の反映であるかもしれない。」
●「ヨーロッパの乳房」の中の「ユートピアとしての時計」から

「時計とは、要するに、飼育された時間みたいなものであろう。
生きている時間を捕捉して、小さな箱のなかに閉じこめて、
逃げ出さないようにガラスの蓋をして、
私たち人間が観察するのに便ならしめたのだ。」
●「黄金時代」の中の「時間の死滅について」から




報道写真家ロバート・キャパは、
共和国側から、「スペイン内戦」を撮影した。映画ではない現実!

SPAIN. 1936. Spanish Civil War.
http://www.magnumphotos.com/Archive/C.aspx?VP=Mod_ViewBoxInsertion.ViewBoxInsertion_VPage&R=2K7O3R1PEF27&RP=Mod_ViewBox.ViewBoxThumb_VPage&CT=Album&SP=Album

Heart of Spain
http://www.magnumphotos.com/Archive/C.aspx?VP=Mod_ViewBoxInsertion.ViewBoxInsertion_VPage&R=2TYRYDI32L7S&RP=Mod_ViewBox.ViewBoxThumb_VPage&CT=Album&SP=Album



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