大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

メモ (6) 西田幾多郎(その2)

西田幾多郎随筆集より抜粋




*(その1)からつづく


「死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。
物窮(きわ)まれば転ず、親が子の死を悲しむという如きやる瀬なき悲哀悔恨は、
おのずから人心を転じて、何らかの慰安の途を求めしめるのである。
夏草の上に置ける朝露よりも哀れ果敢なき一生を送った我子の身の上を思えば、
いかにも断腸の思いがする。
しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、
悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり、
いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。
永久なる時の上から考えて見れば、何だか滑稽にも見える。
生れて何らの発展もなさず、何らの記憶も遺さず、
死んだとて悲んでくれる人だにないと思えば、哀れといえばまことに哀れである。
しかしいかなる英雄も赤子も死に対しては何らの意味も有(も)たない、
神の前にて凡て同一の霊魂である。
ルカニヤの作といい伝えている画に、死の神が老若男女、あらゆる種々の人を捕え来りて、
帝王も乞食もみな一堆(いったい)の中に積み重ねているのがある、
栄辱(えいじょく)得失もここに至っては一場の夢に過ぎない。
また世の中の幸福という点より見ても、生延びたのが幸であったろうか、
死んだのが幸であったろうか、生きていたならば幸であったろうというのは親の欲望である、
運命の秘密は我々には分らない。特に高潔なる精神的要求より離れて、
単に幸福ということから考えて見たら、
凡(すべ)て人生はさほど慕うべきものかどうかも疑問である。
一方より見れば、生れて何らの人生の罪悪にも汚れず、何らの人生の悲哀をも知らず、
ただ日々嬉戯(きぎ)して、最後に父母の膝を枕として死んでいったと思えば、
非常に美しい感じがする、花束を散らしたような詩的一生であったとも思われる。
たとえ多くの人に記憶せられ、惜まれずとも、
懐かしかった親が心に刻める深き記念、
骨にも徹する痛切なる悲哀は寂しき死をも慰め得て余りあるとも思う。
最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、
種々の迷を起さぬものはなかろう。
あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、
思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。
我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、
後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、
深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、
後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、
心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。
歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、
また地獄に堕(お)つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
といえる尊き信念の面影をも窺(うかが)うを得て、無限の新生命に接することができる。」



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