大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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メモ (6) 西田幾多郎(その1)

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西田幾多郎といえば、日本を代表する哲学者で知られている。
その考え方は、むずかしすぎて、
私には、まったく理解できない。

しかし、以下の文章を本屋で立ち読みしたとき、
衝撃をうけ、すぐに購入した。
そこには、一人の私生活をもつ人間としての悲痛な叫びがあった。
生きていることの悲哀の感情というのだろうか。



西田幾多郎随筆集より「我が子の死」(明治40年・37歳のとき)


「三十七年(注:明治)の夏、東圃《とうほ》君が家族を携えて帰郷せられた時、
君には光子という女の児があった。
愛らしい生々した子であったが、
昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、
余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。
しかるに何ぞ図《はか》らん、今年の一月、
余は漸く六つばかりになりたる己(おの)が次女を死なせて、
かえって君より慰めらるる身となった。
今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、
思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。
君と余とは中学時代以来の親友である、
殊に今度は同じ悲《かなしみ》を抱きながら、久し振りにて相見たのである、
単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。
しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、
面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。
逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。
ただ余の出立(しゅったつ)の朝、君は篋底(きょうてい)を探りて一束の草稿を持ち来りて、
亡児の終焉記《しゅうえんき》なればとて余に示された、
かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、
及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。
君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、
互にその事を忘れていたのではない、
また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。
誠というものは言語に表わし得べきものでない、
言語に表し得べきものは凡て浅薄である、虚偽である、
至誠は相見て相言う能《あた》わざる所に存するのである。
我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、
涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。
余も我子を亡くした時に深き悲哀の念に堪えなかった、
特にこの悲が年と共に消えゆくかと思えば、いかにもあさましく、
せめて後の思出にもと、死にし子の面影を書き残した、
しかして直《ただち》にこれを東圃君に送って一言を求めた。
当時真に余の心を知ってくれる人は、君の外にないと思うたのである。
しかるに何ぞ図らん、君は余よりも前に、同じ境遇に会うて、同じ事を企てられたのである。
余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李の底に収めて帰った。
一夜眠られぬままに取り出して詳《つまびら》かに読んだ、
読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。
誰か人心に定法《じょうほう》なしという、
同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同一の行路をたどるごとくに、
余の心は君の心の如くに動いたのである。
 回顧すれば、余の十四歳の頃であった、
余は幼時最も親しかった余の姉を失うたことがある、
余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。
余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、
人無き処に到りて、思うままに泣いた。
稚心(おさなごころ)にもし余が姉に代りて死に得るものならばと、
心から思うたことを今も記憶している。
近くは三十七年の夏、悲惨なる旅順の戦に、
ただ一人の弟は敵塁深く屍を委(まか)して、遺骨をも収め得ざりし有様、
ここに再び旧時の悲哀を繰返して、断腸の思未だ全く消失(きえう)せないのに、
また己(おの)が愛児の一人を失うようになった。
骨肉の情いずれ疎なるはなけれども、特に親子の情は格別である、
余はこの度(たび)生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。
余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。
君の亡くされたのは君の初子(はつご)であった、
初子は親の愛を専らにするが世の常である。
特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。
情濃(こま)やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。
亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、
ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。
これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、
しかしこういう意味で惜しいというのではない。
女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、
しかしこういうことで慰められようもない。
ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった、
氏はこれに答えて
“How can I love another Child? What I want is Sonia.”といったということがある。
親の愛は実に純粋である、その間一毫(いちごう)も利害得失の念を挟む余地はない。
ただ亡児の俤(おもかげ)を思い出(い)ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、
どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。
若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、
死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。
しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、
飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。
人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、
しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。
時は凡《すべ》ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、
一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。
何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、
せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、
他の心の疵(きず)や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、
独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、
これを抱かんことを欲するというような語があった、
今まことにこの語が思い合されるのである。
折にふれ物に感じて思い出すのが、
せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。
この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。
死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、
古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である、冷静に外より見たならば、
たわいない愚痴と思われるであろう、
しかし余は今度この人間の愚痴というものの中に、人情の味のあることを悟った。
カントがいった如く、物には皆値段がある、独り人間は値段以上である、
目的其者(そのもの)である。
いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として貴いのである。
世の中に人間ほど貴い者はない、物はこれを償うことが出来るが、
いかにつまらぬ人間でも、一のスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ。
しかしてこの人間の絶対的価値ということが、
己が子を失うたような場合に最も痛切に感ぜられるのである。
ゲーテがその子を失った時“Over the dead”というて仕事を続けたというが、
ゲーテにしてこの語をなした心の中には、
固(もと)より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。
しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない、
学問も事業も究竟(くっきょう)の目的は人情のためにするのである。
しかして人情といえば、たとい小なりとはいえ、親が子を思うより痛切なるものはなかろう。
徒らに高く構えて人情自然の美を忘るる者はかえってその性情の卑しきを示すに過ぎない、
「征馬不 前人不語、金州城外立 斜陽」の句ありて
いよいよ乃木将軍の人格が仰がれるのである。
とにかく余は今度我子の果敢《はか》なき死ということによりて、多大の教訓を得た。
名利を思うて煩悶絶間なき心の上に、
一杓(いっしゃく)の冷水を浴びせかけられたような心持がして、
一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、
凡(すべ)ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。
特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、
忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、
此処(ここ)には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。」


*(その2)につづく


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