大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

潜水服は蝶の夢を見る

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潜水服は蝶の夢を見る」(監督 ジュリアン・シュナーベル




この映画は、レントゲン写真からはじまる。
黒澤明監督の「生きる」のように。
そして、目からの視点の衝撃的な映像。

シャルル・トレネの「ラ・メール(海) 」が流れる。

主人公は、死や病と向き合い、
はじめて自分の存在を意識する。
体のマヒによって欠けていることが、深く自己を意識させる。
健康な時には生きていなかった。
存在しているという意識が低く、それも表面的だった。

身体が動かなくなってはじめて、生きることに目覚める。
体は潜水服を着ているように動かなくても、
蝶のように自由に羽ばたく記憶と想像力で
確実に生きていることを。

左目のまばたきで合図するコミュニケーション。
「伝える」ことの重さと深さを、この映画は教えてくれる。

美しく斬新な映像は、主人公の生きる力を象徴しているかのようだ。

思い出の数々、回想の旅はつづく。
父、恋人、3人の子供たちへの思い・・・・

父の日に家族と海に遊びに行く・・
この海辺の美しいシーンは忘れがたい。

想像力は、時間と制約を超える。
夢といってもいい。

やがて、最後に主人公の視点に戻り、
さなぎに戻っていくかのように静かに死を迎える。

映画の視点は、人の限りある生をあたたかく見つめている。
人間は精神的な存在であること、
そして、死に対しての準備を忘れるなというメッセージもある。

この映画は、
極限状況からの復活と生きることの希望をみごとに描いた秀作である。
一方で、父と子の物語でもあった。



映画をみたあと、ふと昔、読んだ本の一文を思い出し、
あらためて読み直した。

「みちたりた生活の中で安らっている人には意識は生まれにくい。
・・・
自由の意識は人間が一旦不自由になって、
束縛の状態に身をおいて、はじめて生まれてくるのであり、
行動の自由の阻止をとおして自由とは何かを知ったのである。・・・・
意識は行動がとめられ、生活がさまたげられて発生するものである。・・・・
私どもの生活行動が自由で、みちたりた状態にあるかぎり、
感情は充足したその状態をうらづけるうっすらした意識にすぎない。
そとからみて幸福な状況にある人では幸福の感情はうすいものである。
・・・・
行動の阻止、渋滞において感情は濃化するはずである。
・・・・
幸せのなかにすまっている人は、
それを自明のこととしてうかうかすごしてしまうけれども、
のちに不幸でとざされた生活を送るようになってからは、
昔の無自覚の日々が
どんなに幸せだったかが痛切に感じられるようなる。・・・・
幸福の意識は不幸をとおすことにおいてありありと映しだされるものだ」
(「感情の世界」 島崎敏樹 著)


私の父は、68歳のときに脳梗塞で倒れた。
左半身が麻痺した。
顔も左半分は、表情がなくなった。
言葉はろれつがまわらなかったが、
その後、少しは話せるようになった。
家族に、何かメッセージを伝えようとしていた。

そして父は、家族に迷惑をかけまいと、
いっしょうけんめいにリハビリにとりくんだ。
あきらめなかった。
父ががんばっている姿をみたとき、私はうれしかった。
数ヶ月のリハビリで、両足で立てるようになったとき、
父は、まるで赤ちゃんのように、うれしそうな表情をした。
そして、つえを使って少しずつ歩けるようになった。

父は戦前に生まれ育った地、旧満州(現中国東北部)を、
いつも思い続けていたようだった。
かの地で長男を失っていた。

父は何かメッセージを残したいと思っていたにちがいない。

父は最後は寝たきりになってしまったが、亡くなる81歳までぼけることはなかった。


この映画にあるように、
人が生きぬくことを支えるのは、記憶と想像力だと思った。



・・・