大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「月の沙漠」

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月の沙漠 [作詞]加藤まさを [作曲]佐々木すぐる

月の沙漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
金と銀との くら置いて
二つならんで 行きました

金のくらには 銀のかめ
銀のくらには 金のかめ
二つのかめは それぞれに
ひもで結んで ありました

先のくらには 王子さま
あとのくらには お姫さま
乗った二人は おそろいの 
白い上衣を 着てました

ひろい沙漠を ひとすじに
二人はどこへ いくのでしょう
おぼろにけぶる 月の夜を
対のらくだで とぼとぼと
砂丘を越えて 行きました
だまって越えて 行きました




子どものころ、
この歌のイメージを意識せずに唄っていた。

しかし、あらためて、この歌の歌詞をながめ、
曲を聴いてみると、
死への道行のイメージが浮かぶ。
いや、もしかしたら死からの旅かもしれない。

人は、いつかは死ぬ。
それも、一人きりで。
しかし、天国で、また愛する人と再会し、
砂丘の向こうの世界に向かって
ゆっくりと、手と手をとりあって、
もう一度、旅立つことができる。

「らくだ」と「かめ」と「ひも」が二人を結びつける。

この歌には、まったく音がしない、静かな世界がある。
ここには、永遠という時間もある。

はるばる遠くから来て、
そして、いままた遠くへ向かっていく。
ここには、空間と時の広がりがあり、
静かなやすらぎの世界がある。

ふつう砂漠の世界は、乾いているものだ。
しかし、この歌の「沙漠」というタイトルとイメージには、
水を少し含み、湿気がある。


「月の沙漠」という歌には、
ふつうの童謡にない、
人をとらえてはなさない不思議な魅力がある。






寺山修司編著「日本童謡集」から

「子供時代は、遠きにありて唄うものであっても、
帰るところなどではない。ひとは、子供時代を唄うことによって、
みずからの現在地をたしかめる。
「童謡」は大人の中によみがえることによって、
はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。・・・・・・・・

映画に主題歌があるように、
人の一生にもそれぞれ主題歌があるのではないだろうか。
そして、それを思い出して唄ってみるときに、
人はいつでも原点に立ち戻り、
人生のやり直しがきくようなカタルシスを味わうのではないだろうか。
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人が一つの唄をうたおうと思う衝動は、
いつも個人の思い出と歴史とのあいだで揺れ動いている。
そして、大人たちはみな、子供時代を失ってしまったことを後悔しながら、
その「不在の子供時代」によってみたされているのである。」




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