大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

7月7日 (1)

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「歴史公論」 昭和12年12月号    (*必ず画像をクリックして拡大!)
画像は「支那事変と歴史学会」(秋山謙蔵)から抜粋




昭和12年(1937)7月7日、
北京郊外の川にかかる橋の近くで発砲事件が起きた。盧溝橋事件である。
この日中の衝突をきっかけに日中戦争は拡大の一途をたどり、
太平洋戦争を経て、日本は敗戦を迎える。

この盧溝橋事件を「七七事変」と中国では呼ぶそうだ。
満州事変が起きた9月18日と並んで、
7月7日は民族屈辱の日として記憶されているという。
日本人が戦争を考えるとき、
真珠湾攻撃の12月8日や敗戦の8月15日だけを思いうかべるが、
それだけでは十分ではないのではないかと思っている。

日本の中国への侵略は、盧溝橋事件の6年前、
昭和6年(1931)の満州事変から始まるといわれている。
翌年、満州国が建国され、それらが原因となって国際連盟からの脱退につながる。
そして、日本は国際的な孤立への道を突き進む。
日中戦争が本格化したのは、盧溝橋事件の後からだった。
日本軍は戦闘を中国各地に拡大し、
さらに日独伊三国同盟を結び、インドシナ半島を南下するなどして、
英米などとの対立は強まった。
その結果、太平洋戦争に突入し、敗戦に至る。

戦争は、おそらく、軍部や政府、マスコミの主導だけでできるものではない。
それを後押しする世論や日本人一般(庶民の声)の支持があってはじめて、
推進されていくものではないだろうか。

現在では、日中戦争を体験したり、当時を知る人々が高齢化し、
または亡くなっていたりして、
その体験や当時のようすが語られる機会がかなり減ってきている。
その意味で、日中戦争が本格化したきっかけである盧溝橋事件後の
当時の日本人の考え方、時代の空気、
特に戦争の相手方である中国と中国人に対して、
どうみていたかを調べることは重要であると思う。



この雑誌は昭和12年11月18日印刷納本とあり、南京事件(同年12月13日)より少し前である。

<1枚目>
はじめに「いまから凡そ十年前、昭和のはじめに較べて、日本の躍進は、あらゆる方面に亙って實にすばらしい。」とあり、そして「日の丸の国旗は、遠く萬里の長城を越え、遥か黄河の岸に、蒙古の平原に翩翻として中空高く輝いてゐる。」とある。
これは、ほとんど興奮、感動、感激に近い気分である。
日本軍の日の丸の国旗が中国大陸の方々にひらめくのがすばらしいという気分や感想をいだくのはおそらく、当時はこの大学教授だけではなかっただろう。
中国への進出は、ごく自然のこと、または当然のことと受けとめられ、
「侵略」という意識はほとんどなかったにちがいない。
上から俯瞰した日本を中心にした中国の地図、
旗を立ててみたい地図がみえているだけで、
中国に住み、生きている中国人の姿はみえていないのだろう。
軍や国家の膨張や拡大と一体化した日本人の姿が、ここにある。


<2枚目>
「やがて近衛内閣成立して、最初に「國内の相剋摩擦を排す」ことを主張したやうに、何かしら割り切れないものを示していた。それが七月、北支の事変の勃発を見、やがて全面的に支那事変にまで、発展し、現在見るような挙国一致の力強い体制を示すことになったのであるから、この七月を境界として、前半と後半には、一見、凡そ色彩をことにするものが見られた。・・」
ここでは、事変(日中戦争)は、
「割り切れないもの」をすっきりと割り切り、
国内を一つの方向に精神的に統合する役割をもったことが自覚されている。
この文章からも、7月に起きたこの盧溝橋事件は、
日本人の対中国姿勢やスッキリしない時代の気分に大きな影響を与えたことがわかる。


<3枚目>
「不遜な抗日態度を続ける支那膺懲(ようちょう)の事変」、
これが当時の日本人の一般的な見方だったようだ。
「膺懲」とは、こらしめるの意味で、
「暴支膺懲」というスローガンがうたわれた。
先輩や兄が、暴れる後輩や弟をこらしめるイメージなのだろうか。
「不遜な抗日態度」という表現に、
「中国(人)が日本にさからうとは生意気だ」というニュアンスが感じられ、当時の中国や中国人に対する日本人の姿勢が示されている。



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