大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「千の風になって」

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千の風になって」  【作詞】不詳 【訳詞・作曲】新井満 

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています
あの 大きな空を 吹きわたっています



実は私は、
この国民的にヒットした美しい曲と歌詞の歌を
(私自身が)歌うことに違和感をもっている。

この歌をいい曲と感じ、
またこの歌によって癒されている方が多くいるようなので、
私のように違和感をもつのは、おそらくごく少数派かもしれない。
もちろん、あくまでも「感」という個人的なものであり、
どう受けとめ感じようと個人の自由である。

どうして違和感をもってしまうのだろうか。
ひとつには、歌詞(訳詩)である。
死んで向こうの世界の彼岸にいった者からの言葉であり、
メッセージである。
私の身近にも、不慮の死で突然この世からいなくなったものがいる。
たしかに、私も、
こういう歌詞でいう亡き人の魂や霊の世界を感じるときもある。
あの人は、風になり、光になり、雪になり、鳥や星になって、
生きていると。
また、こういう感じ方は、古代からあったという。
http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611/36583018.html

しかし、それは、生き残っているこちら側が、
静かに感じ、静かに想うことであり、
けっして、はっきりと言葉にあらわすこととはちがうものである。
そして、いま生き残っている者が、
死者の思いを想像し、
こちらの願望として、死者のメッセージを代弁し、、
残された自分の都合に合わせて癒そうとすることに、
ためらいがあるからかもしれない。


まず、死者の無念を知り、
死者の思いを引き受けること、
死者のつらさを思うこと 
そして、生前の笑顔を思い浮かべること・・・・


私のもうひとつの違和感は、
アメリカなどでは朗読されていたこの詩にメロディをつけ、
朗々と高らかに、歌いあげることにある。


ときには、歌わないほうがいい場合がある。
そして、言葉にならない思いだってあっていいと思う。

私は私なりに逝った人からのメッセージに耳を傾けたい。


私にとって、この歌がどんなにポピュラーであっても、
歌いたくない歌のひとつである。
はっきり言うと、気持のうえで、
気軽には「歌えない」歌といっていい。

時代の「空気」には、
いろいろな色があってもいいのではと思っている。



写真家・藤原新也さんが最近の下の文章を書かれた。
私には、これほど強く断言する自信はないが、
共感するところも多くある。


「9.11によってアメリカが平常心を失い、無法な戦争が起り、無数の無辜の民が死に、同じく際限のない無法な金融バブル(戦争)が巻き起こり、同じく多くの無辜の民が死に瀕し、やがて今日の世界恐慌と救いのない閉塞が起こったと個人的には思っているが、9.11によるアメリカの過剰なリアクションは社会と世界を崩壊に導いたばかりか人間の「死」に対する観想をも狂わせていった一面があると思っている。あの一件は死や悲しみに対する内向的な「熱狂」をも生み落としたのである。
 そのひとつが日本でブームになった「千の風になって」ということができる。
 9.11のおりに詠み人知らずで歌い継がれた、とまことしやかに喧伝されるこの歌の詩の要旨は「私の墓の前で泣かないで下さい、そこには私は居ず、千の風になってあなたのそばにいるから」ということになっているが、これは生き残った人間が自らを癒し、気持ちよくなるためのひとりよがりな詐術(死者の存在と死の曲解)であったとしても、たとえば般若心経に唱われる生命というものを冷徹とも言える容赦のない目で見つめることによってはじめて生じる空(くう)のこころ。そしてその空のこころがもたらす悟りとはほど遠い。つまりまやかしの死生観であり、歌というそよ風に乗って人をたぶらかす、やわらかいオカルトなのである。
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昨今のメディアと大衆は何事につけてもひとつの話題に一極集中し、一気に加熱して食傷し、一気に冷めて行くというのが通例となっているから「おくりびと」がらみの熱狂もそのうちに速やかに冷めていくだろうが、私はこの騒ぎが「おくりびと」がテーマとしていた「死」というものが逆に奇妙なかたちでブーム化され、曲解されてしまうことを危惧している。
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映画「おくりびと」とオカルト的なものはまったく無縁だが、この映画に流れる静謐な死の風景がメディアのお祭り騒ぎの中でかき乱されてしまうようなイヤーな感じを抱いたのも事実だ。
 確かに私たちの日常は死の風景というものを排除しようとしているには違いないし、その意味において“死を想う”ことは必要なことだが、その想いは内証的に心の中で静かに想い、噛みしめるべきものであって白日のもとに鐘や太鼓を大騒ぎして喧伝するような種類のものではないだろう。この映画がアカデミー賞を取ったということで、その死の風景までもが歪められてしまうのは喜ばしいことではない。」
藤原新也の日記から)



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