大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「五木の子守唄」

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五木の子守唄  
熊本県五木地方民謡  古関裕而 編曲


おどま盆ぎり 盆ぎり
盆から先ゃ おらんと
 盆が早(は)よ来りゃ 
 早よもどる

おどまかんじん かんじん
あん人達ゃ よか衆(し)
 よか衆ゃよか帯(おび) 
 よか着物(きもん)

おどんが打死(うっちん)だちゅて
誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅか
 裏の松山ゃ 
 蝉(せみ)が鳴く

蝉(せみ)じゃ ごんせぬ
妹(いもと)でござる
 妹泣くなよ 
 気にかかる


原曲は熊本県球磨(くま)郡五木村に伝わる子守唄で、
長い間、地元の人か民謡の専門家しか知らない曲だったが、
昭和25年(1950)、古関裕而が採譜・歌謡曲風に編曲して、
NHKラジオの放送終了時に、
自らハモンドオルガンを弾いて放送してから、全国に広まったという。
その後、昭和26年、民謡歌手の音丸の唄でレコード化され、
昭和28年照菊が歌って大ヒットし、
多くの人びとに愛唱されるようになった。


もともと子守唄は、集団的なこどもの遊びを基盤にしている
「わらべ唄」のひとつであったといわれる。

上笙一郎の「日本のわらべ唄」(三省堂)によれば、
わらべ唄には、絵描き唄、おはじき唄、お手玉の唄、羽根つき唄、
鞠つき唄、縄とび唄、手合わせ唄、からだ遊び、鬼あそびなどの遊びの唄や
口遊びの唄、鳥や虫、草や花、月や星などの唄、年中行事の唄や
子守唄があるという。

わらべ唄は群れの唄で、集団の唄である。

一句がもとになり、
それに対する答えが連鎖的に喚起されるという連句式があったり、
尻取り唄、囃し唄、悪口唄、問いさえ用意されれば、
答えは即興的にみちびき出される問答・掛け合い形式もあった。
そして、数詞を頭にすえた唄、数え唄、数かぞえ、人物登場型、
鬼遊びもあった。
そこには、ナンセンス、メロディ・テンポ・リズムの軽快さ、
誰かが唄うと、それを承けて誰かが交ぜっ返す、
そして、口からでまかせ、即興的なユーモアがあった。
そのため、わらべ唄には正調・定型はなく、
変型が、わらべ唄の本来の存在の仕方だという。
唱歌や童謡の誕生以前の基層文化といえるそうだ。

また、子守唄には、
乳児または幼児を抱いたり背負ったりして歩きながら口ずさみ、
その子を眠りに導こうという目的を持った<眠らせ唄または寝かせ唄>、
物語的なものに興味を示しはじめた3、4歳の子を
おとなしくさせておくための<遊ばせ唄>、
子守娘がその仕事のときにうたった<子守娘唄>の3つがあるそうだ。
しかし、この3つの子守唄は、
それが実際に使われるときには、幼い子どもの状態に対応するため、
その境界は、はっきりしないのが普通だったという。

赤ん坊をおんぶしながらでは、
動きのある遊び唄は歌えないとしても、
子守唄がわらべ唄のひとつである限り、
上の特徴は共通してみられるのではないか。

子守のつらさ、悲しさ、哀れさ、貧しさ、同輩への羨望、わが身の不安、
そして親恋しさ、里恋しさを、集団で、ユーモアと悪態、自嘲、
やけくそ、赤ん坊や主人への仕返しやおどし文句などで
自らを慰めるとともに、発散しようとする守子娘たち・・・
苦しかった生活でさえ、唄になった。
むしろ、身のつらさから歌わざるをえなかったのであろう。

小泉文夫は、「子守唄の社会学」で、
日本の子守唄は、子守娘により
カタルシス的な「恨み節」に高められたと指摘している。

さて、「五木の子守唄」だが、歌詞からして、
典型的な上の<子守娘唄>である。

現在、全国的に知られている歌謡曲としての「五木の子守唄」は、
たしかに歌い継がれている名曲だと思うが、
しかし、どう聴いても子守唄を歌う子どもの姿が見えない、
大人のブルースという印象をぬぐえない。


子守娘が歌った当時の「五木の子守唄」は、どこへいったのか。

ここに、高群逸枝が子守唄についてふれている文章が2つある。

「女性史家の高群逸枝(明治27年生まれ)は「今昔の歌」の中で
郷里熊本県における幼児の思い出を記しています。・・・・
「雇われている子守の非常に多かった村で、この一群が、夕日の光を満面にあびて、おんぶした子をゆりあげゆりあげ、大声でいっせいに、いま五木の子守歌(当時)といわれている節の歌を合唱しているのは壮観だった」と。このような斉唱もありましたが、また、<掛け合い>でうたわれることも少なくありませんでした。」
(「日本のわらべ唄」上 笙一郎著)

高群逸枝の「女性の歴史」第3章の末尾には、五木の子守唄に触れた一節がある。・・・『この歌は五木のみならず、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、十、二十人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。』・・・・五木の子守唄が実際に歌われていた場を描写した記録といったものは、ほとんど残されていない。高群の記述はわずか数行のものだが、その貴重な記録のひと駒であるのかもしれない。」
(「子守り唄の誕生」赤坂憲雄著)


明治半ば生まれの高群逸枝の目と耳には、
実際の子守娘たちの思い出と情景があった。
上の二つの文章は、子守唄が子どもたちの集団を前提とした唄、
群れの唄であることをあざやかに証明している。
そうである限り、当時、子守娘たちによって歌われた子守唄は、
現在の歌謡曲としての「五木の子守唄」のように
ノローグ的なメロディであったはずがない。
子守唄もきっと、
わらべ歌の共通の形式、歌い方をもっていたにちがいない。

「五木の子守唄」の歌詞をよくみると、
子どもの集団を前提にしたわらべ唄としての要素、問答・掛け合い、
連句(連想)式、尻取りなどが含まれていると思う。
例えば、AとBの二つの子守娘のグループがあって、
最初にAグループが、
そして、上の歌詞の段落を下げた句は、
Bグループが歌うという場面を想像してみる。
すると、
子守娘の子守のつらさをバネにした子どもらしいユーモアと
ナンセンス、毒をもったストレス発散、
うっぷんばらしのエネルギーがところどころにみえてこないだろうか。

そのひとつの具体的な例として、
一番上の有名な歌詞「おどま盆ぎり・・・・」をみていきたい。

守り子の楽しみは盆と正月であった。年季が明けなくても、
「薮入り」によって一時的(1日程度)に里に帰れるからである。

「年季で雇われている子守娘にとって、「あの山越えて里へ行く」ことは最大の喜びでした。・・・・・・子守娘が、その胸にたまった辛い思いを訴えることのできるのは、正月やお盆の薮入りに父母のもとへ帰ったときだった。その2日を除いた一年363日は、主家にあって鬱屈の思いを抱いていなければならず、そのため、村の辻に出て気晴らしにうたう守唄が、「守はつらいもの」という一句を主調低音とすることになったのでした。」
(「日本のわらべ唄」上 笙一郎著)

しかし、この「五木の子守唄」の歌われた九州の五木村や球磨地方では、
下の文章のように年季奉公の交替(出替り)は正月(旧)であったという。
また子守りたちの年季明けは、各地の子守唄をみても、
12月13日、15日、20日、24日や1月、2月というところが多く、
これまでの「五木の子守唄」の通説の解釈のように、
盆の時期に交替したり、年季明けになるケースは、ほとんどみられない。

「・・・期限が切れる盆が来るのを指折り数えて待ちわびる少女の姿は、ひたすら切ない。しかし、五木でも球磨地方でも、年季奉公の交替は正月であった。旧暦7月15日は薮入りで、親に見参(げんぞう)に帰るのはふつうのことだが、交替する風習はなかった、という。・・・・2月2日を交替期とする旧正月年季であった。人吉市の周辺でも、この旧正月年季であったという。盆が交替の時期として歌われているのは、なぜか。・・・・五木村や球磨地方で、盆が奉公の交替期でないとすれば、どこか別の地方の唄が紛れこんでいる可能性があるにちがいない。・・・子守りを含めた奉公の形態を、期間や交替期を中心として比較・検証してみれば、この代表的な五木の子守唄の出自と伝播のルートを突き止めることができるのかもしれない。・・・・」
(「子守り唄の誕生」赤坂憲雄著)

そこで、全国の子守唄データベース(子守唄協会)で、
「行く」、「帰る」、「もどる」というキーワードで調べてみた。
すると、「里へ行く」「帰る」という言葉は、
薮入りや年季が明けて、里に帰る場合に使われ、
「もどる」、「もどって来る」は、
盆正月の薮入り後、奉公先へもどることまたは、
戸外から奉公している主家にもどるという意味で、
使われることが多いことがわかった。
いま立っている地点を前提にすると、
「もどる」は、向こうにもどるのではなく、
現在、自分がいるところ(ここ)に「もどる」のである。


ところで、「五木の子守唄」の一番上の歌詞の解釈は、
次のものが、定説・通説となっている。

おどま盆ぎり 盆ぎり(子守奉公も盆で年季が明け)
盆から先ゃ おらんと
盆が早(は)よ来りゃ(恋しい父母がいるふるさとに帰れる日が待ち遠しい)
早よもどる

一方、柳田國男「民謡覚書」をみると、、
大人の民謡の盆踊歌に、
「盆よ盆よと待つのが盆だ 盆が過ぎれば夢のようだ」
「盆じゃ盆じゃもきょうあすばかり あけりゃ野山で草刈じゃ」
「盆じゃ盆じゃと楽しむけれど 盆も早すむ夜もあける」
など、上と似たようなフレーズ、気分のものがあることがわかった。
大人の民謡が、子守唄にも影響を与えている可能性があるかもしれない。

民謡の影響と子どもらしい問答・掛け合い形式などを頭に入れ、
年季明けと「盆ぎり」の矛盾や「もどる」の語の問題から、
私は、「五木の子守唄」の一節を、下のように解釈したい。
また、実際に子守娘が歌ったテンポも、
おそらく、現在のしっとりした歌謡曲のものより、もう少し軽快で、
子どもたちも、いきいきと声をはりあげたものと想像する。


●おどま盆ぎり 盆ぎり (歌:Aグループ)
おらは盆になったら里に行って、ここにはいないぞ。
*本当は、年季明け(奉公終了)ではなく薮入りで里へ

●盆から先ゃ おらんと (Aグループ)
<背中で泣いている赤ん坊に聞かせるように(当てつけて)>
盆から先は、おらはここにはいないからな。
*盆を過ぎ、師走になると外は寒くなるし、子守りがつらくなる。
半季勤めてここを出るぞ、あとは野となれ山となれ
と、いきおいで言ってみても、しょせん心と歌の中だけという心情)

●盆が早(は)よ来りゃ (Bグループ)
盆が早く来ればいいなと待ち遠しく思っていたが、

●早よもどる      (Bグループ)
盆が来て、休みが終われば、(年季奉公の身なので)
結局は、またここ(奉公先)に早くもどって来なければならない。


いま、ほり起こし、再発見すべきは、
子どもの集団とエネルギーを基にした「わらべ唄」の世界である。


一方で、子守が必要とされた背景として、江戸時代の中期からの幕府の農村の人口増加奨励策や明治新政府の富国強兵策の一つとして堕胎禁止令が出される中で、貨幣経済の進展により貧富の差が拡大し、貧しい農民の子どもたちが、「食いぶち」を求めて「口減らし」のために、中流の商家や農家に奉公に出され、安い労働力として、男子は丁稚、小僧として、女子は、子守などとして働かされることになったという現実を忘れてはならないだろう。

・・・・・・