大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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かごめかごめ (5)

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かごめかごめ (5)




さて、民俗学者柳田国男は、
「かごめかごめ」は、
神降ろし、神の口寄せの形が子どもの遊びとなって保存されたものという。
ところで、この神降ろし、神の口寄せというのは、
そもそも、どういうものなのだろうか。


古代は、
地上の人々の世界と天上の神々の世界という二重の構造をもっていた。
神(神霊)は、通常は目に見えない存在とされていた。
神は、多くは天上か山奥か、幽冥(霊)の世界など、遠い世界に住み、
時として人が住む世界に訪れることがあっても、人の眼には映ることはない。

風雨、雷、流れ星、地震津波などのような自然の災厄・変異から、
疫病、不幸などのような人災、そして動物の声、木の葉のさやぎまでが、「兆」(きざし)として、
神の意思(神意)の警告やあらわれとされた。
そんな公的、私的な何らかの重大な異変が起こった場合、
神に降りてきて来てもらい、その原因と対応策を教えてもらう。
神が巫女(シャーマン)に懸(か)かり、依り憑(つ)くことによって、
巫女が神の声や意思の言葉を人々に伝える。
これは託宣(たくせん)といわれる。
それは、神の意思を占うことに通じている。

一方、人々は自分たちの意志や希望を、巫女を介して神に伝えた。
巫女(シャーマン)は、リズムにあわせて神がかり、
その人のたましいが天上の神のもとにたどりつき、
神の指示をあおいで、それを人々に伝える。
たましい・霊が体から出て神のところへいくかわりに、
神がシャーマンの体のなかにはいいてくるというかたちもあった。
人々は、シャーマンをつうじて神と交感し交流したのである。

さて、巫女(シャーマン)が神がかり、神が憑くには、
意識を集中し一種の催眠状態になければならない。
神に対して祝詞(のりと)をあげ、
また霊夢や幻覚を見るための特別な修行、
こもりなどの呪術の儀礼をする。
そして、ただひたすら念ずる。
周囲では、琴や笛、梓弓などを鳴らし、奏でて、
呪文を唱え、神降ろしの儀礼を行う。

シャーマンは、人形や笹や木の枝など(「採り物」という)を持ち、
振り、舞わしながら神の歌を歌い、催眠(トランス)状態に入っていく。

いったん、神が降ろされシャーマンに憑くと、
からだがくるくるとまわる、頭をふる、からだをゆする、神がかる。
シャーマンは恍惚となり、言葉は神の独り言となる。
神がかってからだをふるわせ、
神から伝えられたことばを伝える。
このとき、神の物語る言葉は、
日常のことばとはようすが変わったものになり、感情が高ぶってきて、
断片的で、整理されない言葉や単語の反復、対句、
意味の転換などがさかんにおこなわれる。
神の異様な音声・ことばには、魂・霊がこもる。
言霊(ことだま)とは、本来、神のことばである。
 
神の意思の表現に用いられた簡単な神の言葉(神語)の様式が、
神に対しての設問にも利用されるようになった。
まじないによって、さらに神意を呼び出す。
催眠状態に入って自分でなくなって、いろいろな受返事をする
ここから、神と人の問答の形に発展していく。

やがて、神は現世での活動を終えると、
いったんは幽冥の世界に立ち去り、隠れる。

神がかりの役として、神霊が憑依し(つき)やすいのは、
巫女(女性)が多いが、ときには、童子(「よりまし」という)の例もあった。
日本書紀」の「崇神紀」に、
出雲大神が丹波の氷香刀辺(ひかとべ)とい人物の子の一小児に、
神がかりし、託語(託された神の語)を発した記録が残っているという。

古代は祭りと政治が一体になっていて、男性の政治的な見とおしと、
女性の宗教的な感覚がよりあって国を運営したとされ、
卑弥呼も、巫女であったという。


そして、神は村々にも、降りてくるようになった。
神が村々へ時を定めてあらわれ、あることばを語っていく。
ことばはおそらく村人の要求どおりのことばであって、
しかも毎年繰り返される。村人が平穏無事で暮らせるように、
農作物が豊かであるようにと。

巫女を介した神・精霊と人の問答が、
祭りの中で神に扮する者と人との問答になっていく。
「神と人間の問答が、神の意義を失って、
春の祭りに、五穀を孕(はら)ませる為の祭りをする。
其れは、神と村の処女と結婚すれば、
田畑の作物がよく實ると思ったからである。
神々の問答が、神と処女と、そして村の男と女のかけ合いになった。」
折口信夫

いつしか、神だけでなく祖霊、死者の霊なども、
降ろされ、よばれるようになった。

そして、口寄せの巫術(ふじゅつ:神霊の口寄せ)を扱うのは、
多くは盲僧、陰陽師、山伏の妻の盲御前、民間の巫女となっていった。


「さすらい人の芸能史」(三隅治雄)によると、
旅の聖や比丘尼(びくに)、山伏が各地の農村をたずねて、
そこの誰彼に、家の因縁、人の幸不幸を聞き出し、
そこに不運不幸の原因となる怨霊の存在があれば、
その怨霊を呼び出して、かれの話を聞く。
そして、最後に念仏なり真言なりを唱えてこれを送りだす。
また男女を問わず、盲人には霊感力があり、
そのため、霊との対話、霊の託宣を専門とする盲人が多かった。
口寄せも託宣も、
長い時代の間に説話=「もの(霊)語り」を霊の述懐談として、
人々に語る形が生じてきた。
神仏の信仰が衰えて、託宣が芸能化した。とのこと。


さて、神の口寄せ(くちよせ)という言葉、
これは、神や霊を自分に降霊(憑依)させて、
霊の代わりにその意志などを語ることの出来る術または、
それを行う人のことである。
死霊、生霊、神仏などの霊体を自らの体に乗り移らせて、
その言葉を語らせる降霊術の一種とされ、巫女などの霊能者が行う。
このような巫女は、
現在でも、津軽地方のイタコ、沖縄のユタが知られているが、
特定の地域だけでなく全国的に存在する。


「ものけ姫」に出てくるアシタカの村の老巫女、ヒイさまは、
アシタカの呪いと行く末を占い、アシタカに道を示した。



<次回(いよいよ最後)に続く>