大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

青い山脈 (3)

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青い山脈」によせて


以下
「不滅の歌謡曲」(なかにし礼:1938・昭和13年生)の「楽譜の上の戦争」から抜粋
(注:数字は文章の部分をわかりやすくするため)

「‥傾弔汎釮隆檗△修靴道狠呂防襪ことを美化し、靖国神社で会おうというかたちで結論づけるのが軍歌のパターンです。・・・・
(軍歌について)しかし、いい歌であるからこそ、多くの人が愛し、戦闘意欲に駆り立てられ、多くの人が戦地へと赴いたのです。軍歌はいい歌であればあるほど罪深い。このことをけっして忘れてはいけないと思います。・・・・
終戦後、山田耕筰は戦時中の行動について東京新聞紙上で音楽評論家・山根銀二との間で「戦犯論争」を繰り広げました。そこで山田は「なるほど私は戦争に協力した。そうした愛国的行動が戦争犯罪なら日本国民は挙げて戦争犯罪者になる。・・・」・・・・
「愛国的」、つまり「日本のため」ということ自体が、芸術に携わる人間にとっては根本的な過ちに他ならないと私は思うのです。
ず郢豌箸任△貂邏焚箸任△譟∈邁箸箸いΔ發里呂匹鵑幣賁未任盧嚢發虜酩覆鬚弔ろうと力を尽くします。もちろん、それ自体は悪いことではない。でもその結果、作家の卓抜した技によって煽り立てられ、死地に赴き苦難を強いられた若者たちがたくさんいたことを絶対に忘れてはならないのです。その作家たちに、果たして罪の意識はあったのか。山田の例をひくまでもなく、ほとんどなかっただろうと私は思うのです。もしあれば二曲目、三曲目を書くことなどできない。国民が歌に煽られて好戦的ムードを高めていくことに対し、心ひそかに快哉を叫んでいたのではないかとさえ疑いたくなります。そこに彼らの罪がある。自分たちの技術を国家に提供して、国家に加担しているわけです。・・・・
セ笋郎郢豌箸箸靴討呂垢任縫戰謄薀鵑良類ですが、もし今戦争が起きて、その国策に合致する歌を書くように言われても、はっきりと宣言しておきますが、絶対に書きません。それは戦争に反対するという政治姿勢や個人的な思想の問題以前に、歌をつくる人間、あるいは作家として、「主人を持ってはならない」という思いがあるからです。・・・・
ζ鐱椶任蓮軍歌を通じて戦争と天皇制的な国家を美化するために、時代を代表する歌謡曲の作家たちが、それこそ技術の限りを尽くした。だからこそ、あれほどの軍歌が生み出され、そして国民の記憶に深く刻まれたのでしょう。・・・・
彼らの生み出した芸術の影響を受けて死んでいった若者たちが大勢いた。歌というものは、直接聞き手の情緒に訴えかけるものなので、その影響力は計り知れない。だからこそ、それを政治目的に利用するのは非常に汚い手なのです。その手口に加担した以上、自らの罪深さというものを意識しなかったのであれば、それはいくらいい歌をたくさん書いた人であっても、歌というものに対する謙虚さ、美というものに対する謙虚さが欠けていると思うのです。つまりは権力の乱用であり、技術の乱用であり、美の乱用ということになるのです。・・・
Гいげ里任△譴个△襪曚漂畤爾ぁいい歌であればあるほど多くの若者を死なせている。そのことをやっぱり確認しておかなければならない。歌を書くということは、場所と機会を与えられたから何でも書けばよいというものではありません。書いてはならない場所というものがあるのです。」



(以下、kemukemuの感想)

ヽ阿ら、客観的にみれば、そういうパターンになるのかもしれないが、
一方、戦地に行った人や銃後の人にとって、
軍歌が自らの戦闘と死へ向かう行動を意味づけ、
元気づける役割を果たしたのではないだろうか。

◆屬いげ里任△譴个△襪曚漂畤爾ぁ廚箸い場合の「罪」は歌にあるのか。
当時は軍歌の後押しだけを受けて戦地におもむいたのではないと想像する。
軍歌にあらわれている祖国、故郷、皇軍天皇、銃後の人々、父母など
時代の空気や気分に送られていったのであり、
軍歌はそのイメージを思い出させる一つの方法で、
戦争協力行動を支え、
また、うっくつした不安な気持ちを解放する方法の一つだったにすぎないと思われる。

「歌と戦争」という本によると、山田耕筰と山根銀二の論争について、
なかにし礼では、概要の記述だが、
正確には山田耕筰は次のように反論しているという。

「果たして誰が戦争犯罪者かー山根氏に答える   山田耕筰
 ・・・・
成る程私はお説通り戦時中、音楽文化協会の副会長として、時の会長徳川義親侯を補佐して戦力増強士気昂揚の面にふれて微力をいたして来ました。それは祖国の不敗を願う国民としての当然の行動として、戦時中国家の要望に従ってなしたそうした愛国的行動があなたのいうように戦争犯罪になるとしたら日本国民は挙げて戦争犯罪者として拘禁されなければなりません。・・・
各方面で人を戦争犯罪者呼ばわりする傾向がありますが、これは誠に嘆かわしい現象ではありませんか。・・・・
山根君!国は敗れ国民は茫然自失しています。今こそ吾々音楽家は一切の私情を去って一丸となり敗亡日本を蘇活さす高貴な運動を展開すべきです。・・・・」
(1945年12月25日 東京新聞

実は、この山田耕筰を批判した山根銀二は
「音楽文化」という雑誌の1944年(昭和19年)5月号に
次のような文章を発表している。(「歌と戦争」) 
これは、なかにし礼の「不滅の歌謡曲」では、
まったくふれていない部分である。
(たぶん、そこまで検証していないのだろう)

「「決戦楽曲」制作の意義   山根銀二
・・・・我々には更に音楽者としての任務がある。特に空襲下に於ける行動は極めて重要である。音楽が他のあらゆる芸能に比し、国民の感情に訴えかけこれを慰撫激励する力の強いことを考える時、これが素材たる楽曲の内容と、その取り扱いに充分慎重を期さなければならないのである。まず、内容の点から見ると国民の士気を鼓舞し、不屈の闘志を養うべく、健全明朗、勇壮、活発、静謐、軽快等の言葉で現せるようなものが必要である。・・・・・
我々は忠誠心の溢れた愛国歌曲を生み出さねば居れぬ止みがたい熱情を堅持している。・・」(筆者は日本音楽文化協会常務理事)

山根銀二は自分のことを棚に上げて、山田耕筰を批判していることがわかる。
終戦直後は、
このような保身から民主主義の時流に便乗する人が多かったらしい。

「「愛国的」、つまり「日本のため」ということ自体が、芸術に携わる人間にとっては根本的な過ちに他ならない」となかにし礼は書いている。
しかし、山田耕筰のいうように、
「祖国の不敗を願う国民としての当然の行動として、
戦時中国家の要望に従ってなしたそうした愛国的行動」=戦争協力は、
戦争犯罪」でもないし、
当時の状況を調べれば、
後世の人間が簡単に「過ち」、「悪」とか「罪」と裁けるものではない。
たしかに、山田耕筰ら当時の流行歌の作曲家、作詞家は
当時、軍部の情報局により、
戦争への士気高揚のリーダーとしての役割を与えられ、
または自認していたのかもしれないが、
一方、彼らの歌の影響によって戦地に行ったものがいても、
彼らの、国民と意識を一つにし祖国を守ろうという行動が、
絶対的に「悪」とか「過ち」といえないのではないか。
また、そう考えなければ、
当時、祖国のために戦地に行き、多くの亡くなっていった人が浮かばれない。

「戦争」自体が、
そして、戦争を遂行しようとする「国家権力」が「悪」なのである。

づ??涼亮運諭κ顕戎佑梁燭は、軍部に反発を感じながらも、
指導者としての使命感により、
祖国を守るために国民とともに戦争協力することが純粋な行動であるという意識はあっても、
おそらく、後になってもそれが「罪」とか
「国家に加担」という意識はなかったのではないか。
むしろ、当時は、国民(庶民・大衆)と運命をともにしないことにこそ、
「罪」があると感じていたにちがいない。

ァ屬發刑戦争が起きて、その国策に合致する歌を書くように言われても、
はっきりと宣言しておきますが、絶対に書きません。」、
「歌をつくる人間、あるいは作家として、「主人を持ってはならない」という思いがあるからです。」と、
なかにし礼は書いている。
しかし、当時の国策による言論統制の状況では、
こんな、なかにし礼の思いなど、
いとも簡単に吹き飛んでしまうほどきびしいものであったにちがいない。
平和の今の時代だから言える決意など、
私は、とても信用する気にならない。
まして、なかにし礼は常にヒットを意識し、
時代の流行に敏感だった歌謡曲メーカーであった。

Σ里髻崟治目的に利用」したのは支配権力であり、
多くの作曲家、作詞家は「その手口に加担した」という意識はもっていなかったのではないか。
国を愛する意志からの戦争協力行動(慰問活動含む)に対して、
罪の意識をもてないことはありうるのである。
それを、当事者の痛みや苦悩、葛藤への配慮なくして、
「権力の乱用であり、技術の乱用であり、美の乱用」というのは
少し言いすぎではないかと思う。

А崕颪い討呂覆蕕覆ぞ貊蠅箸いΔ發里ある」というが、
そんな「書かない自由」が当時、どれだけあったのかどうか疑問である。



なお、ここにあげた、なかにし礼と私に少し接点があるとしたら、
なかにし礼の場合と同じように、
両親、姉・兄が(戦後生まれの私を除き)、
満州(現中国東北部)から引き揚げたということである。
私の家族が引き揚げたのは、昭和21年7月だったと聞いている。



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(次回につづく)