大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「シャボン玉」

イメージ 1
 
 
「シャボン玉」
 
作詞  野口雨情
作曲  中山晋平
 
シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こはれて消えた
 
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに こはれて消えた
 
風々吹くな シャボン玉飛ばそ
 
 
詩は大正11年雑誌「金の塔」11月号に「野口雨情 しゃぼん玉」として発表、
曲は大正12年1月発行の中山晋平作曲集「童謡小曲」第3集に
「シャンボン玉」として掲載されたという。
この曲は、雨情が子どもを亡くして、その思いをこの詩に託したという説があり、
定説のようになっている。
実際、雨情の生家で雨情の解説をしている雨情の孫にあたる野口不二子さんも、
この話を紹介しているという。
一方、野口雨情の研究の第一人者である息子さんの野口存彌氏は
この説を否定し、次のように述べているという。
「・・・しかし「シャボン玉」が発表されるまでの何年かを取り上げてみても、
雨情にはそのような事実は見当たりません。
雨情は生前、「詩というものは、それを書いた人の名前は忘れられ、
その詩だけが残ったとき、初めてほんとうのものになる」と語っていましたが、
その言葉からもうかがえるように、
詩人としての独自性は詩表現に私的な性格を持ち込まないところにあったといえます。
当然、わが子を歌うというようなことは、ほとんどまったくありませんでした。
この作品で歌われているのも、路傍や庭先でどこでも見かけるような子供なのです。・・・」
「童謡へのお誘い 童謡大学」(横山太郎 著)という本では、
それぞれの見解や解釈を両論併記で紹介している。
野口存彌氏は「定本 野口雨情」の3巻、4巻の解題でも、
その見解をくりかえし書いている。
 
同じ野口雨情の親族の受けとめ方のこの温度差はどこにあるのだろうか。
野口不二子さんは、
野口雨情の前妻、高塩ひろさんとの間に生まれた長男、雅夫さん(明治39年生)
(雨情の生家の家督を相続)の娘である。
雅夫さんのあと、北海道でひろさんとの間に明治41年3月15日、
長女みどりさんが生まれたが、3月23日に亡くなっている。
野口不二子さんは現在、野口雨情生家・資料館の館長をされている。
一方、野口存彌氏(昭和6年生)は、
雨情が高塩ひろさんと離婚したあと再婚した中里つるさんとの間の子息である。
 
野口存彌氏が「「シャボン玉」が発表されるまでの何年かを取り上げてみても、
雨情にはそのような事実は見当たりません。」と言い切ってしまうのも
心理的な距離感から自然ではあるが、
「シャボン玉」発表の十数年前に、
「雨情の子が幼くして亡くなったという事実」はあった。             
一方で、「雨情が「シャボン玉」の表現の意図や気持を言葉に残したという事実」は
なかったようである。
とすると、わが子を亡くしたという背景をもとに、
意識してわが子への鎮魂歌を書いたという解釈はちがっているのかもしれない。
 
なお、大正11年11月に「シャボン玉」発表後の大正13年9月23日、
大正10年11月27日に後妻のつる夫人との間に生まれた恒子さん(四女)を、
満2歳で亡くしている。
つまり、「シャボン玉」が発表されたのは、
長女を亡くして十数年後であり、
四女の恒子さんが生まれて、ちょうど1年後のことであった。
亡くなった子と生まれてきた子・・・・
 
しかし、「わが子を歌わなかった」からといって、
詩人が自分の詩の表現に「思い」をこめないということがあるだろうか。
親としては、何年たっても、わが子の死を忘れないものである。
結果として、
「思い」が自然に秘められた形で表現されることもあるのではないかと
私は思っている。
上の野口不二子さんも、
「きっと雨情の亡き子への思いが込められていたのかも知れない」という
受けとめかたなのだろう。
 
「シャボン玉」の「飛ばずに消えた 生まれてすぐに こはれて消えた」という表現は、
たしかに悲哀と喪失感を感じるキーワードである。
一方で、最後の
風々吹くな シャボン玉飛ばそ」には、
未来への希望や願い、祈りの思いも感じる。
 
 
「雨情は「はぐれる」とか「取り返しのつかないこと」という消息を
歌い続けた詩人だった。・・・・・
雨情が「はぐれる」と見たものは、
セルロイド人形や赤い靴の女の子ばかりではなかった。・・・・・
雨情は寂寞のなかの消えゆく跡形ばかりを追っていた。
シャボン玉が飛んで屋根まで飛んで、そこで壊れて消えてしまう消息を詠んだ。」
松岡正剛の千夜千冊「野口雨情詩集」)
 
 
おそらく、野口雨情が直接、わが子を歌わなかったのは、
童心の普遍性を重んじる「童謡」詩人としての自制だろうと私は思っている。
もし、野口雨情が童謡にかかわっていなければ、
わが子の死についても、きっとその詩によって直接的に表現したかもしれない。
 
実際、江戸、明治期、大正期の俳人歌人、詩人、文化人は、
幼くして死んだ我が子への思いを、それぞれの作品によって表現している。
以下はその例である。
 
石川啄木歌人、詩人) 長男3週間 
 真白(ましろ)なる大根の根の肥ゆる頃うまれてやがて死にし児(こ)のあり
 「一握の砂」
 (注:野口雨情と石川啄木は、北海道時代、親交があった)
 
小林一茶俳人) 長男1ケ月足らず  長女1ケ月
    露の世は露の世ながらさりながら 「おらが春」
 
中原中也(詩人、歌人) 長男2歳  次男1歳
      
  「また来ん春」  (詩集「在りし日の歌」より)
  
  また来ん春と人は云ふ
  しかし私は辛いのだ
  春が来たって何になろ
  あの子が返ってくるぢやない

  おもへば今年の五月には
  おまへを抱いて動物園
  象を見せても猫(にゃあ)といひ
  鳥を見せても猫(にゃあ)だった

  最後に見せた鹿だけは
  角によっぽど惹かれてか
  何とも云はず 眺めてた

  ほんにおまへもあの時は
  此の世の光のたゞ中に
  立って眺めてゐたっけが…
 
西田幾多郎(哲学者) 次女6歳 
 
高浜虚子俳人) 四女3歳 
           白芥子の咲かで散りたる我子かな 大正3年5月
           三女の娘(孫)80日 
  雛よりも御仏よりも可愛らし  「ホトトギス」昭和4年4月
 
木下利玄(歌人) 
      長男4日 
       あすなろの高き梢を風渡る われは涙の目をしばたゝく
      次男1年9ケ月
この家に吾子(あこ)死にてありいそぎ来て門入り行かむ力なきかも
長女6ケ月
久しくてこの子に寄れるに病みたれば面もちまじめにわれを見てをり
 
 
幼い子をなくしたのは、野口雨情だけではなかった。
 
ちなみに、江戸時代の乳幼児(5歳未満)死亡率は高く、
推定で50%といわれている。   
また、厚生労働省の統計によると、
出生1,000人に対する明治、大正期の乳児(1歳未満)の死亡率は、
統計がとられた明治32年から大正13年まで150~180であった。
つまり、100人生まれると、
1歳までに15~18人は亡くなってしまっているということだ。
伝染病の蔓延や栄養事情、衛生・医療の遅れによるものだろうが、
いまから考えるとこれは、大変な数字である。
その後、大正の終わりごろからしだいに減りつづけ、
昭和15年になってはじめて100を切り、平成16年は2.8(0.28%)である。
野口雨情が長女を亡くした明治41年をみてみると、
死亡総数のうち0~4歳までが38%も占めていた。
大正期であってもこの傾向は変わらない。
当時、幼い子を亡くした親、幼い兄弟、姉妹などを身近で亡くしている人が
たくさんいたということである。
 
明治、大正は、乳幼児の死の影を背景にもった時代であり、
そんな時代の気分や当時生まれ、生きた人々の隠された感情として、
常に「悲哀」や「喪失感」、「無常感」があったとしても、
ふしぎではない。
そんな時代に生まれたこの「シャボン玉」、名曲であり、深い詩である。
 
 
 
 
 
(参考 「野口雨情」平輪光三 著)
 
・・・・・・・