大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

独裁者(6)

・・・・



映画「独裁者」は、明らかにヒトラーのパロディである。

冒頭のナレータには、「二つの大戦の間の狂気」が語られる。
映画におけるユダヤ人に対する迫害と暴力的犯罪、
抵抗するユダヤ人に対するSA(突撃隊)の射殺のシーンが描かれていた。
(このシーン以降、笑えなくなる)
そして、すでに
主人公のヒンケルの演説のなかに「ユダヤ人絶滅」という言葉があった。
風船の地球儀と戯れる独裁者ヒンケルの「世界支配」の妄想。

最後の演説には、
ヒトラーへのチャップリンの抵抗と危機感、
全世界へのメッセージが感じられる。

映画「独裁者」は1939年のはじめに製作が開始され、
1940年9月からアメリカ、イギリス、フランスなどで公開された。
その間、1939年9月、ナチス・ドイツポーランド侵攻があり、
第2次世界大戦がはじまった。
公開されたのは、まさにヒトラーの絶頂期であった。

残念ながら、
映画「独裁者」に込められたチャップリンのメッセージは届くことなく、
現実の世界は進んでいった。


一方、「独裁者2」でふれた
ナチスに対する抵抗運動「白バラ」のビラの2番目に
以下の表現があった。
ポーランド征服以来、この国のユダヤ人はじつに三十万人、
野蛮きわまる方法により虐殺されたという事実である。
ここにおいてわれわれは、人間の尊厳に加えられた世にも恐るべき犯罪、
全人類史に似るものなく並ぶものなき犯罪を見るのである。
ユダヤ人といえども人間である。
ユダヤ人問題に対する立場のいかんを問わぬ
-しかして人間にかかる虐待がなされたのであった。・・・・」


ここで、注目すべきことは、
1939年の時点でアメリカでは、
ユダヤ人に対する迫害・射殺などナチスの組織による暴力的犯罪が
一般的に知られていたことである。
それは、映画「独裁者」が証明している。

そして、
「白バラ」運動の2番目のビラをみると、
(→この書庫「独裁者2」と「独裁者5」の年表)
ビラが作られ配られた1942年6月~7月には、
すでにドイツ国民にユダヤ人に対する虐殺が知られていたことがわかる。
「白バラ」運動のメンバーの一人のヴィーリー・グラーフは、
1940年から41年にかけて、フランス戦とユーゴスラビア戦に従軍し、
ナチス占領地での実態を知った。
そして、メンバーのハンス・ショルとアレクサンダー・シュモレルは
ドイツ陸軍兵士として、ポーランド戦、ソ連戦に従軍し、
国防軍の後方で展開した特別行動隊による
現地でのユダヤ人虐殺を目撃していた。



ドイツ国民はもちろんのことナチス・ドイツの占領地の
ユダヤ人は知っていたのである。

日常的に、ユダヤ人への基本的権利剥奪などの迫害、
暴力・犯罪・殺人行為、無数の蛮行が、
国民の眼前で繰り広げられたことを、
実際に見聞きしていたはずである。
諸外国も、その伝わった情報から、
ユダヤ人に対する暴力はドイツが
もはや法治国家でなくなっているという印象をもっていたはずだ。

そして、のちに
ドイツ国民やナチス・ドイツの占領地の非ユダヤ人は、
知人のユダヤ人が突然、秘密警察によって連行されたり、
ヨーロッパの各地から、
白昼堂々とユダヤ人たちが
汽車(貨車)で強制移送されていく光景を見ていた。
ユダヤ人の運命について、
強制疎開ポーランド送りが何を意味するか、
知ろうと思えば知ることができた。
ベルリンのような大都会の中心部にも東方(ポーランドなど)送りの前に
いったん集める仮収容所が設置されていたという。
ポーランドにおけるユダヤ人大量虐殺について、
ユダヤ系のドイツ国民や占領地の国民は情報を得ていたのである。

強制収容所というものが存在すること、
罪のない人々が捕らえられていること、
人々が跡形もなく消え失せることは誰もが知っていた。
しかし、それと同時に、この公然の秘密について語ること、
いやそれどころか、
そのことについて問合せること以上に危険なこと、
厳禁されていることはないということはないということも皆は知っていたのである。
人間というものは物事を知り経験するためには、
彼の知ったこと経験したことを理解し確認することのできる他の人々を必要とするのだから、
各人が何らかの形で知っているが声に出して言うことができない事柄は、
一切の具体的現実性を失って、
すべての領域とすべての人間活動をひとしなみに支配して
人を悩ませる漠然たる不確かさ及び不安という形でしか存在し得ない。」
(「全体主義の起源3」ハンナ・アーレント著)


また、東部戦線(ソ連圏、ポーランド)へ従軍したドイツ兵は、
国防軍のあとにつづいて親衛隊の特別行動部隊が繰り広げた、
現地でのユダヤ人の大量殺戮についての情報を知っていた。
東ヨーロッパで特別行動部隊が残虐の限りをつくすようになると、
昔からユダヤ人を迫害してきた地元の集団までもが、
ユダヤ人の虐殺に加担するようになった。

そして、ホロコースト(大量虐殺)の間に行われた、
ユダヤ人の隔離、一斉検挙、移送、殺害は、
それぞれ占領地、地元の協力があってこそできたものだった。

東ヨーロッパでも、西ヨーロッパでも、
占領者ナチの協力者が、そしてその隣人や知人が
潜伏していたユダヤ人やユダヤ人に同情的な者などを
ゲシュタポ(秘密警察)に密告していた。

ほかの多くの人々も、ユダヤ人の苦境には無関心であったり、
自分には関係のないことと見放し、距離感をもっていた。
ナチに協力しないまでも、ユダヤ人を助けようとしなかった。
大多数の国民は危険に巻きこまれることを恐れて、
自衛のために黙っているしかなかった。


連合国側は1942年には、
すでにナチのユダヤ人虐殺について、
十分情報を得ていたが、積極的に動こうとしなかった。
1942年8月、スイスにいた世界ユダヤ人会議のリーグナーは、
アメリ国務省アメリユダヤ人会議議長に、
ヒトラードイツ国内およびドイツが占領している地域のすべての
ユダヤ人の最終解決」計画について、極秘電報を打っていた。
「最終解決」に関する情報は、
1942年10月ポーランド亡命政府秘密特使カルスキからも、
イギリスとアメリカの指導者に伝えられている。

1944年1月にアメリカ(ルーズヴェルト大統領)は、
戦争難民評議会を設け、
遅ればせながらユダヤ人救済のための活動を開始した。
ナチスの「ニュルンベルク法」(1935年9月15日)から8年、
「水晶の夜」事件(1938年11月9日)から5年、
そしてナチに占領されていたヨーロッパ各地に、
すでに絶滅収容所強制収容所が作られ、
ユダヤ人の最終解決」がかなり進んでいたとき、
ようやくアメリカの救援活動は始まったのである。
その原因は、国務省内の反ユダヤ主義、国内の移民排斥主義に加え、
何よりも戦争努力を優先すべきだという1941年の決定で、
アメリカはユダヤ人難民を救う唯一の方法は、
この大戦に勝利することだと確信していたのである。


カトリック教会も、ナチスの障害者などの安楽死計画には反対したが、
ユダヤ人の虐殺については、事態を知りながら沈黙を守った。
ヨーロッパ中の神父たちは、ユダヤ人の家が空になり、
村人が移送されていくのを見ながら、
救いの手をさしのべず(さしのべることができず)、
見て見ぬふりをした。

ナチスはたとえキリスト教徒でも、
反逆した者は強制収容所に送るなど、ためらうことなく制裁を加えた。
そのためキリスト教徒の多くは、
わが身と家族を守るため批判を口にしなかった。
ナチスに追従し、ユダヤ人政策にも積極的に協力した
キリスト教組織も少なくなかったとい。

ヴァチカンはすでに1942年3月には、
各地の教皇庁使節から、
ユダヤ人の虐殺に関する確かな情報が伝わっていたという。





(つづく)



・・・・・