大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

[満州」語録 9

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

*写真:「最新 満洲寫真帖」(昭和13年発行)から
上 「新京 南広場」
中 「新京 西公園と大同大街」
下 「新京 満州人街の雑沓」



●『森繁自伝』 森繁久彌

金でいえば、億という数字-そんな土地やら家やら、
ビルやら物やら財宝やら―
そして、長い年月の血と汗がただ働きにすっとんで、
各人一人千円のユニティな振出しに戻ったのである。
物を持つということが、
こんなにも滑稽なものだったかと知らされたようなものだ。
・・・・満州の曠野を走っている時は、
家を見ても、人を見ても、そらぞらしいほど遠い他人と見えたが、
あの赤い柿の実のなる家を眺めては、
おお同胞よ!と口にも出かかるたのもしさである。
これが祖国というものだと一人うなずいた私だったが、
安直にうなずいた揺りかえしはひどかった。
それから幾年、そして幾度、
私は温かかるべきその祖国の同胞から
非情の打っちゃりを受けねばならなかったか。



●『満州昭和十五年』 桑原甲子雄

・・・私のカメラの対象は、
ほとんど満人街と呼ばれた中国人地区にかぎられていた。
かれらはこの大陸で生れた父祖の地以外住むところをしらぬはずである。
かれらの生活空間にこめられた濃密な時間は歴史そのものであった。
そのことは白系ロシア人たちにもいえる。
国境をこえ北満で住みついているかれらの足の地についた柔和な表情。
ひたすら軍事力で物言わせようという虚構の日本人の多くの表情とは
まるきりちがったものだった。
それは、大陸にいる人間たちに触れながら、
日本をあらためて見返えしたとき、
ある日ハッと感じられる想念であり、
観念やイデオロギーをこえたものとして、
ある確かさをもって私に迫ってくるのだった。・・・・
満州についての教訓は、私にとって名称はどうあれ、
住民、庶民、大衆をぬきにした国とか、国家というものへの
いいようのない不信感であった。・・・・



●『コラージュとしての満州』(『満洲昨日今日』所収) 別役 実

私の満州は、こうした小さな断片のコラージュである。
それらを、順序を整えて並べ直したり、
ひとつの流れとして確かめることなど、恐らく出来ないだろうし、
する気もない。
最近、中国孤児のことが新聞やテレビでしきりに話題にされていて、
私も熱心に見ているのであるが、
彼等が見えない目でものを見ようとするように、
その「思い出」を探ろうとしている姿が、私にはひどく身にしみる。・・・
かりにも一度「満州国」というものが想定され、
そこに何ものかを結実させようとしていただけに、
それが崩壊した時、すべてが無法則的に拡散してしまったのかもしれない。
・・・・いうまでもなく私の言う満洲というのは、
かってそう呼ばれていた場所のことではない。
私たちがそこに居た、生活のことである。




・・・・・・