大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (25)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 14 (1961年『狂気の歴史』から)



「・・・・古典主義は、非人間的なものに恥ずかしさを感じているのだが、この感情を、文芸復興期はけっして抱かなかった。
 ところが、このように秘密にしてしまう仕方には例外が一つある。狂人には、例外の処置がとられたのである。気違いを見世物にすることは、おそらく、中世にさかのぼる古い習慣だったにちがいない。ドイツのいくつかの狂人の牢獄では、格子窓がつけてあって、つながれている狂人たちを外部から見られる仕掛けになっていた。彼らは都市の城門のところで見世物にされていたわけである。奇妙であるが、この慣習は、〔のちに〕狂人保護院の門がかたく閉ざされる時代に消滅しなかったし、それどころか、パリやロンドンでは、ほとんど制度的な性格をおびつつ、発展していったのであった。依然として、一八一五年にも、ロンドン自治体当局へ提出された報告を信ずると、ベスレヘム病院は日曜日ごとに一ペニーの料金で躁暴性の狂人を見せている。・・・・・フランスでは、ビセートルへ遠出して重症の気違いを見物することが、大革命以前までは、パリ市の左岸に住む市民階級の人々が楽しむ日曜の気晴らしの一つだった。・・・・・


こうして狂気は、収容施設のなかに閉じこめられた沈黙であるよりも、見世物と化してしまい、おおやけの見せしめとなって万人を喜ばせる。非理性は監禁施設のきびしい秘密のなかに隠されていたが、しかし、狂気は世間という舞台のうえにたえず取りあげられていたのである。--以前よりも精彩をはなって。・・・・・・今や、見世物になっているのは狂気自身であり、狂気そのものの姿である。シャラントンの所長だったクールミエは、十九世紀のはじめ狂人が、あるいは役者、あるいは観客の役割を演じるという名高い芝居を主催したことがある。「これらの芝居に参加した錯乱者たちは、無節操で無分別で時には意地悪な観客の注意と好奇心の対象だった。これらの不幸な人々の風変わりな態度や物腰は、見物客の嘲笑と馬鹿にしたような哀れみをさそった。」サドがその絶対権力をおよぼす世界、そして、自らを確信する理性のまともな意識にたいして、気晴らしとして差し出される世界では、狂気は完全な見世物となるのである。・・・・・」



「監禁は非理性も隠している、そして非理性によって抱かせられる恥ずかしさをうっかり漏らしてしまう。しかし、監禁は狂気をあからさまに指示し、はっきり指摘する。・・・・・・・・
十八世紀における狂気のこの組織化された示威と、文芸復興期に狂気が人々にはっきり知らされていた時の自由さとのあいだには、どんな共通性もない。文芸復興期には狂気はいたるところに現存していて、そのイマージュやその危機を介して個々の経験と混ざっていた、古典主義時代には、狂気は見世物である、だが、格子の向う側から見せられるのである。しかも、狂気が姿を見せる場合、一定の距離をおいてであり、理性の視線にさらされたままであって、この理性は、もはや狂気と近親関係をもたないし、あまりにも似かよっているために巻添えをくうように感じる必要ももはやない。見られるべき物となった。もはや自己自身の奥底にある怪物ではなく、奇異な機構をそなえた動物、ずっと前から人間が消滅している動物性となったのである。・・・・・・」




「・・・・・当時、救済施設につきまとっていたのは、動物性にまつわる一種のイマージュであった。狂気はその相貌を動物の顔付きから借りうけている。独房の壁にしばりつけられている人々は、正気を失っている人間というわけではなく、自然な凶暴さに悩まされている動物なのである。それはあたかも、狂気が、そのもっとも弱い形態が含まれている精神的な非理性から解放されて、もっとも激しくなると、無理やり動物性の直接的な凶暴さと合致してしまうかのようである。こうした型の動物性が保護施設のなかではびこり、施設は檻や家畜小屋のような姿をみせるのである。・・・・・・・」






(つづく)