大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかし Mattoの町があった」 (26)

全国で自主上映
イタリア映画「むかし Mattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 15 (1961年『狂気の歴史』から)



「・・・・狂人は、≪人間存在として取り扱われない≫というこの否定的事実は、きわめて肯定的な内容を持っているのであって、人間扱いをしない無情なこの無関心は、現実には強迫観念という意味あいを含んでいる。すなわち、この無関心は、昔からの恐怖感に根ざしていて、その恐怖感は古代以来、とくに中世以来、なじみぶかい奇怪さ、人間をおびやかす驚異、ひそかに不安をいだかせる重圧、そういう感じを動物界にうえつけたのである。しかしながら、動物にたいするこの恐怖はその想像上の景観の点で狂気の知覚にともなうものであって、こうした恐怖感は、もはや二、三世紀以前の場合と同じ意味をまったくもっていない。つまり、動物への変身は、もはや地獄の魔力の可視的なしるしでもなく、非理性の悪魔的な錬金術の所産でもない。人間のなかの動物は、もはや、一つの彼岸へむかう徴表という価値をもたない。それは人間の狂気-狂気以外の他のいかなるものにも無関係な、人間の狂気、つまり自然状態の狂気となったのである。狂気において荒れくるう動物性は、人間から人間のなかに存在しうる人間的なものをうばいとるけれども、それは、人間を他のさまざまな力にゆだねるためでなく、ただ単に、人間をその固有の本性の零度のところに置くためなのである。・・・・・」



「狂気のなかで、動物性のこのような現存は、進化論的な展望では、病気の徴表-それどころか、その本質そのものと考えられる時が、いずれ到来するだろう。だが反対に、古典主義時代には、奇妙なほど明白に、このような動物性の現存が、狂人は病人にあらずという事柄をまさしく表している。人間のなかに存在しうる脆く、不安定で、病的なすべてのものから、狂人を保護しているのは、実際、動物性なのである。・・・・・・」




「狂気は、<贖罪>の教訓をさずけられる一方では、動物性に還元されてしまい、非理性の総体にくらべると奇妙な立場に立たされる。監禁施設のなかでは、狂気は非理性のすべての形態ととなりあっていて、それらの形態は狂気をつつみ、狂気のもっとも一般的な真理を限定している。しかし狂気は孤立させられ、特別の仕方で取り扱われており、狂気がもちうる独自性をとおして示されている。・・・・・・・」



「 狂人はその本体においては明示されていない。狂人が疑いをはさむ余地なきものであるのは、狂人が他者であるからである。ところで、この他者的性格は、いまわれわれが位置している古典主義時代には、感知される差異として、ある種の自己確信にもとづいて、じかに感じとられてはいない。デカルトは、自分が「水差し状の壷であるとかガラスでできている」と思いこんでいる狂人たちにたいして、「しかし、この連中は狂った人々である」とのべ、自分は彼らとは全くおなじではないことをただちに知ったのであった。彼らの狂気の必然的な認知は、自然発生的に彼らと彼のあいだの既存の関係から生れてくるのであって、差異を知覚する主体は自分自身を出発点としてその差異を測っていたのだった。・・・・・」



「・・・・・・狂人を定義するその関係が、客観的な比較の働きによって、理性的な主体の視線に狂人をすっかり提示する。・・・・・」


「・・・狂気を他の人々との差異として知覚する観念上の意識について狂気が表れるかぎりでは、狂気は理性にとって存在する。狂気は理性の前では二重の存在方式をもつ。つまり理性の向こう側に属すると同時に理性の注目をあびている。・・・・・・・・・理性の注目をあびてというのは、狂気が独自な個別性であり、その固有性格や行為や言語活動や身振りが、狂人ならざる者において見出されるものと一つ一つ区別されるからである。・・・・・・・・

理性的なものを背景とする道徳的な理解と、合理性を背景とする客観的で医学的な理解が、ギリシャ時代の狂気という大問題を別にすれば、すくなくともラテン・ローマ時代以来、狂気意識がこの二元論によって分割されてきたのは事実である。・・・・・・」



「・・・狂人は理性によって完全にとり囲まれ、制御されうる-というのは、狂人にこっそり住みついているのは理性なのだから-のではあるが、理性はつねに狂人を理性の外に保持している。理性が狂人にたいして影響しうるとしても、それは外部から、客体としてである。のちに狂気についての実証的学問に基礎をあたえる、この客体という地位は、今われわれが分析しているこの知覚上の構造-内部の合理性の認知-が明らかになると、狂気の発見のなかにある非理性的なものが暴露されるばあいの、動きそのもののなかに刻みこまれるのである。・・・・・・・」



「≪狂気とはなにか≫とい問いかけにたいする答えは、病気の分析法から演繹されるのであって、その場合の狂人は自らの具体的実在をとおして自分のことを話す必要はない。十八世紀は狂人を知覚するが、狂気を演繹するのである。・・・・・・・・」




(つづく)