大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかしMattoの町があった」 (了)

全国で自主上映
イタリア映画「むかしMattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



これまで、この映画の舞台の時代的背景を書いてきたが、
最終回の今回、映画の主人公フランコ・バザーリア(実在)の
年表を作成した。



精神科医フランコ・バザーリアの関連年表>    

1904年 イタリアではじめて精神障害者に関する法律が制定され、危険な精神障害者は、精神病院(マニコミオ)に強制入院、隔離されるようになる。
1924年 ヴェネチアで生まれる。
1944年 反ファシズム活動で逮捕され、半年間ヴェネチアの監獄に投獄される。
1952年 フランカ・オンガロ(23歳)と結婚。(バザーリア28歳)
~1961年 イタリアのパドヴァ大学精神医学教室の助手となり、大学の精神科クリニックで働く。
1961年 ゴリツィア県立精神病院に院長として赴任(~1969年まで)、衝撃を受ける。
1964年 ロンドンの社会精神医学会で「施設化の場所としての精神病院の破壊」発表。
1968年 精神病院を告発した本『否定された施設』を出版。ヨーロッパで若者の自由な社会を求める変革の運動が広がる中で、多くの若者に影響を与えた。
1968年 外泊中の男性入院者が夫婦喧嘩をして妻を殴り殺す。この事件でバザーリアは告訴される。
1969年 この裁判でバザーリアは無罪となるが、病院長としての地位を追われ辞任。
1971年 県知事に招かれ、トリエステ県立サン・ジョバンニ精神病院に院長として赴任。すべての患者が参加できる患者集会(アッセンブレア)を活用していく。
1972年 このころ、精神病院の中に就労のための協同組合が結成された。
1973年 入院者を先頭に若者たちなどの行列が、青い張子の馬を引きながらトリエステの街をねり歩く。
1974年 仲間たちと、改革をすすめる精神科医療従事者を中心とした民主精神科連合という団体を結成、イタリアの精神保健改革の運動が広がる。
1974年 重症者を在宅で支える24時間オープンの支援の拠点として、トリエステに精神保健センターを開設。このころ、就労のための生活協同組合がつくられる。
1977年 バザーリアと県知事が緊急記者会見、トリエステ県立精神病院の閉鎖を宣言。
1978年 精神病院への新規入院を廃止する法律(180号)が、国会でほぼ全会一致で成立。予防、治療、リハビリは、地域精神保健サービス機関で行うことに。
1980年 サン・ジョバンニ精神病院が完全閉鎖。バザーリア、脳腫瘍で他界(56歳)
1994年 イタリア全土に地域精神保健サービスを普及させる「精神保健の擁護三年計画」が出された。1998年に追加の「擁護三年計画」発表。
1999年 精神病院がイタリア全土からなくなる。



自由、平等、人権などを価値とする民主主義を、
市民が自ら闘いの中でかちとったイタリアなど欧米の国と
その経験のない日本とでは、事情がちがう。
イタリアの精神保健改革と同じようなことが、
そのまま日本でスムースに実現できるとは考えられない。
文化や風土、国民性、社会的背景のちがいのほか、
地域での受け皿(人、モノ、金)がほとんどないこと、
そして、経験の蓄積による改革や民主主義の「精神」が、
決定的に不足しているからである。



この映画の紹介の最後は、
最近の日本の危機的状況を憂いながら、
ある人(故人)の言葉で閉めくくりたい。



「私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるというということなのです。・・・・・・
 自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身のなかに巣食う偏見からもっとも自由でないことがまれではないのです。逆に、自分が「捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、何とかして、ヨリ自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になり得るチャンスに恵まれてることになります。制度についてもこれと似たような関係があります。
 民主主義というものは、人民が本来の制度の自己目的化―物神化―を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。・・・・・・」


「日本では私たち国民が自分の生活と実践のなかから制度づくりをしていった経験に乏しい。歴史的にいっても、たいていの近代的な制度はあらかじめでき上がったものとして持ち込まれ、そのワクにしたがって私たちの生活が規制されてきたわけです。それでおのずから、まず先に法律や制度の建て前があってそれが生活のなかに降りてくるという実感が強く根を張っていて、その逆に私たちの生活と経験を通じて一定の法や制度の設立を要求しまたはそれらを改めていくという発想は容易にはひろがらない。・・・・・・・」


<『「である」ことと「する」こと』1958年 丸山真男講演から>






(長かった映画「むかしMattoの町があった」は、
これでおわり)