大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかしMattoの町があった」 (45)

全国で自主上映
イタリア映画「むかしMattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




「1968年」

 1960年代後半から70年代初期にかけて、一連の抗議運動がイタリア社会を震撼させた。
 戦後イタリアの社会運動の展開においては、1968年の学生運動、69年の労働運動の爆発的な高揚期が明確な転換点になった。
 その背景として、急激な経済成長を経て、イタリア社会の工業化と都市化が本格的なものとなったことや北部の工業地帯には、農村、特に南部から若い移民労働者が大量に流入した。また、高等教育を受ける女性も増加した。こうした社会動向は、ファシズム期の諸要素をも引きずる古い社会制度や閉塞した政治システムとの緊張を高めざるをえなかった。
 国民は過去10年間の急激な変化のために生じたさまざまな社会的ひずみに苦しみながらも、新しい時代への期待も抱いていたが、政治家たちはそのひずみを和らげることも国民の期待に応えることもできず、人々を激しい抗議に駆り立てた。
 それは、イタリア独自の社会現象ではなく、他の国々でも同じような激しい抗議運動が起きていた。トリノやローマばかりでなくパリやワシントンでも日本でも、抗議運動が起きていた。しかし、イタリアほど幅広い階層の人々を巻き込み、長期間にわたって抵抗運動が続いた国は他になかった。他の国が下火になった後でも、イタリアでは激しい反体制運動が形と手法を変えながら何年も続いた。

 「1968年」とは、まずは大学へ、次には工場へ、さらには都市、教育、医療、福祉、カトリック教会、監獄、精神病院、軍隊、警察、裁判所などの無数の諸制度へ向けて展開された一連の政治的、社会的運動を総称するものである。


<大学>

 学生運動の高揚のきっかけは、1965年5月に議会に提出された「大学改革法案」(グーイ法案)が、卒業に必要な年数がちがう複数のコース(特に職業教育のための2年コース)を導入しようとしていたことに、教育権の平等や拡大を主張する学生たちが反発したことであった。しかし、それは、大学教育の劣悪な実態を背景に、ただちに、旧態依然たる教育体系や正教授が絶対的支配権をもつ権威主義的な講座制などへの異議申し立てや拒否へと拡大していった。運動形態としては、大学・学部占拠が特徴的であった。
 イタリアにおける大学占拠が初めて行なわれたのは1966年1月のトレント大学で、研究・教育計画および大学の理念をめぐって大学と学生のあいだに対立が生じ、それが大学占拠にまでエスカレートした。この占拠が北部と中部イタリアの各大学に飛び火し、翌1967年のミラノ、ジェノバトリノ大学で占拠を突破口にいっきに全国化し、12月のナポリ大学占拠で南部にも拡大し、68年1月にはローマ大学も含めて36の大学が占拠されていた。警察が学内に導入されて学生たちと警官隊が衝突する事件も頻発した。
 1968年当時のイタリアの大学進学率は、他の西欧諸国に比べても低かった。大学の設備、授業内容などは劣悪で、ベビーブーム世代を受け入れる態勢は整えられていなかった。68年5月にはフランスで「5月革命」が起り、ドイツでも学生運動に火がついた。それ以前から学園闘争が始まっていたイタリアでも、さっそく、全国で大学占拠ののろしがあがった。
 学生たちを怒らせたのは、1960年の初め頃から必要な教育資源がないままに膨張し続けた教育組織であった。大学生による授業妨害、座り込み、警官隊との衝突が、1967年の冬から68年の春にかけて頻発した。

 1967年、68年に大学や高校などで広がった戦闘的な抗議行動には、一種の社会革命や文化革命が含まれていた。当初、学生たちは学園における授業形態や権威主義に対して抗議していたのだが、あらゆる領域における権威、すなわち家庭や国家や教会に対しても抗議を向け始めるようになった。
 
 しかし、そのような学生たちの行動は、単なる教育改善の要求ではなく、学生たちの根本的な不満がマルキシズム的思想の影響を受け、イタリア社会とその価値観全体に対する批判となって爆発したものであった。1968年の後半になると、イタリアはもとよりヨーロッパ全体で、革命前夜の機運が高まった。
 イタリアの学生運動では伝統的に階級闘争の言葉が多用されていたが、その実質的な主張は反権威主義であった。抑圧の源泉としての家族を含めたあらゆるヒエラルヒーや権力中枢が攻撃された。そして、それに対置されたのが直接民主主義であり、参加であった。また、あらゆるタブーを拒否する自由至上主義的傾向も強かった。


<労働者>

 この学生たちの反乱に労働者の運動が呼応する。1967年、68年にかけて大工場では、異議申し立てが頻発した。
 1968年トリノの自動車工場では、生産ラインが労働者たちによって止められ、生産された自動車の破壊もみられた。しかも、その運動は既成の労働組合の指導や統制をはねのけるかたちで、若い下部活動家たちにより始められた。この時期は労働者たちが街頭で急進的にデモを敢行した時期でもあった。
 当時、イタリアの労働者の賃金水準は西欧諸国では最低であった。また多くの国民の住宅、交通、教育、健康保険の状況は惨憺たるものであった。一方では、ファッション誌などの大衆誌が、消費の魅惑的なイメージをふりまき、国民の消費意欲をあおった。労働者の抗議運動は政治的運動でもあった。労働者を立ち上がらせたのは、単に生活条件に対する不満だけでなく、政党や、中道と左派の労働組合に対する裏切られたという思いと不満でもあった。

 北部の労働者たちが、1968年から69年にかけて激しい抗議運動を起こし、次々と大規模なスト、工場占拠、デモを行い、全国各地で運動の嵐が吹き荒れた。この嵐が最高潮に達したとき、人々はそれを1969年の「熱い秋」と名づけた。
 1968年3月、11月の年金制度改革をめぐるゼネストを端緒に、69年の金属機械、化学、建築など多くの部門でのストライキ、デモ、集会へ、さらに住宅、保険制度、税制などの諸改革を要求する10月の全国統一ゼネストへと展開した。そして、1969年12月締結の労働協約では、全労働者の同一賃上げ、3年以内の週40時間制の導入、見習いや勤労学生への優遇措置、職場での大衆集会開催などの成果が獲得された。この時期の注目すべき特徴は、組合に加入していない労働者、特に青年労働者、出稼ぎの臨時工などが中心となって、労働組合組織の枠外に職場の直接民主主義組織を生み出していったことである。こうしたなかで一時は指導権を失いかけた労働組合組織は、政党からの自立性を高め、同時に三労組の統一行動を強めつつ、巨大な底辺のエネルギーを吸収することに成功する。

 こうして「熱い秋」は、年金や賃金格差の撤廃などの普遍的目標を要求していった。また、「熱い秋」は、科学的労働組織による健康被害に対する闘い、労働環境に対する闘い、生産拠点における新しい直接民主主義の組織化を承認させる闘い、生産ラインの速度を自主管理するための闘い、職員・工員間の待遇の平等化、週40時間性などを獲得する闘いへと発展していった。

 このようにして高揚した「熱い秋」の成果のひとつが、1970年の国民投票を行なうことを認める法律や5月に制定された「労働者憲章」である。「労働者憲章」は経営内における使用者の権力を制限すること、労働現場における組合の存在を立法によって強化し使用者に対抗して労働者の権利と自由を保障するという二つの目的を持っていた。これによって、たとえば、不当な解雇に対して司法の裁きを求める権利などの重要な権利が労働者に保障された。

 1969年から73年にかけて工業労働者の賃金は2倍近くに増え、新しい年金法も可決された。1971年には、公営住宅の数を増やすための法律も可決された。これらの改革を政府と労働者の間に立って遂行したのは、労働組合であった。その結果、労働者の労働組合への信頼感が増し、1968年から75年にかけて、イタリアの二大労働組合の組合員数は60%以上増えている。これらの結果として、労働者の抗議が合法的な組織を通じて行なわれるようになったため、1974年までには、集団的な示威運動の勢いは急速に衰退していった。


<その他>

 その他にもいくつかの改革が実施され、社会不安がさらに緩和されたばかりでなく、イタリアという国の性格が大きく変わることになった。
 すでに5つの特別地域に自治政府がおかれていたが、1970年に地方政府が創設され全国が15の州に分けられ、それぞれの州が選挙によって選ばれる地方議会と、住宅・健康・医療・農業の分野の立法権を持つことになった。その結果、豊かな北部と中部には、地方分権を求める勢力が生まれ、この勢力がのちのイタリアに非常に重要な影響を及ぼすことになった。

 学生運動、労働運動に加えて、この時期には、既存の社会的、経済的関係を変革しようとする集団行動が、北部、中部を中心としながらも、イタリア全国の、しかもあらゆる領域へと広がっていった。
 /靴靴こ層(ヒラの労働者、青年、移民)を巻き込んだ労働運動他の職種への労働組合運動の拡大(特に第三次産業や公務員)3慇険親悪づ垰埀親悪ゥ侫Д潺縫坤牘親悪若者のカウンターカルチャーД札シュアリティにかかわる運動地域主義運動民族運動サービス利用者の抗議運動(消費者運動、自主的割引運動)エコロジー運動新宗教運動、コミューン運動制度に対する抗議運動(裁判所、監獄、病院、精神病院)医療・健康問題に対する闘争

 さらに、1970年には、圧力団体「離婚法制定連盟」による4年間のキャンペーンの成果として、イタリア人にとってもっとも画期的な「離婚法」が可決された。しかし、キリスト民主党は離婚法に反対し、この法律を廃止するために国民投票に訴えようとしたが、1974年に行なわれた国民投票の結果は、有権者の60%が離婚法の存続を求めた。


 イタリアの精神保健改革は、このような潮流の中で精神病院という「制度に対する抗議運動」として行われた。


(「近代イタリアの歴史」北村暁夫、伊藤編著(ミネルヴァ書房)、「イタリアの政治」(早大出版部)、「イタリアの歴史」創土社を参考にした)





(次回でおわり)