大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかしMattoの町があった」 (44)

全国で自主上映
イタリア映画「むかしMattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




イタリアの精神保健改革の背景として

<政治情勢>

 1956年には、ソ連フルシチョフが1930年代にスターリンが行なった驚くべき粛清の真相を暴露し、スターリン神話はほとんど一夜にして崩壊した。
 経済的・社会的変化が左翼に革命を促すことを恐れていたイタリアのキリスト教民主党を安堵させた。また、イタリア共産党を直撃したのは、ソ連軍がハンガリーを侵攻したというニュースであった。当然、イタリアの多くの人々が、真の民主主義を許さない国ソ連というイメージを抱いた。1957年までには、およそ40万人の党員が共産党を離党している。そのために、その後のイタリア共産党は、モスクワとの距離をおかざるをえず、「イタリア流の社会主義化」路線をかつてなく強調していく。
 他方、1956年の一連の出来事から、共産党以上に激しい衝撃を受けたのは社会党であった。実際、それ以前の社会党は、共産党よりもソ連よりだったからである。社会党ソ連ハンガリー侵攻を激しく非難し、侵攻に対してあいまいな立場をとる共産党を批判し、共産党に協力することを断念し中道寄りの社会民主主義勢力に接近し始めた。
 一方、キリスト教民主党にとって、イタリアで三番目に大きい政党の社会党を連立内閣に加えることは共産党を孤立させるいい機会だと考えた。経済の急成長のために生じた社会不安がますます高まっていたために、キリスト教民主党は、どうしても若干左翼寄りの政策に転換せざるをえなかったのである。
 さらに、バチカンも方針を転換する。1958年に保守的な教皇ピウス12世が亡くなり、そのあと教皇ヨハネス23世が継ぎ1963年に死去し、この教皇の在位期間は短かったが、この間にカトリックの考え方が大きく転換した。すなわち、多くのカトリック教義が時代錯誤であり、聖職者からも世俗の人々からも疑問視され始めたため、社会に対する教会の役割と方法が真剣に再検討されはじめた結果、バチカンはイタリアの政党間の争いから距離をおき、純粋に精神的な伝道を世界的に強化することが決定された。1962年に開催された第2回バチカン公会議では、バチカンの提案によって多くの社会問題や教義に新しい自由主義的解釈がとり入れられた。
 このような情勢のもとで、キリスト教民主党社会党との間で連立の交渉を始め、1963年社会党が入閣した。それ以降一連の中道左派連立政権が続くなかで、国民の間に、住宅や教育などの分野が改革され、南北間の格差が縮小するだろうという期待が広がった。
 しかし、社会党内の統一戦線を維持できなかったことと、1964年に社会党左派が党から離れて新党を結成したために連立内閣における社会党の影響力が失われたこと、ほとんどの企業経営者たち、特に中小工場の経営者たちは、労働コストの上昇を招きかねない社会経済的改革にはまったく乗り気でなかったことなどから、ほとんど期待はずれに終わった。
 さらに、共産党も警察、軍、政界の派閥を抱きこんだファシストたちが1920年から21年にかけて、いかに徹底して労働運動を圧殺したかを身にしみて覚えていたため、右翼のクーデターを恐れるあまり、大衆運動に強い指導力を発揮して、精力的に改革を訴えることにしり込みした。社会党共産党も、中道と左派の連立体制が解体するようなことになれば、イタリアは反動勢力の手に落ちるだろうと恐れた。実際、諜報部門や軍関係の官僚組織の一部には多くのファシストが残っていて、共和国転覆の機会をうかがっていた。
 こうして中道左派連立政権は、経済成長のために生じた社会不安と南北格差を解消することに失敗した。


<高度成長>

 1960年代イタリアは高度経済成長のために、ひずみとして大きな代価を支払った。
 第一に、この経済成長によって発展したのは、限られた地域すなわち経済の恩恵に浴した地域は北西部、北東地方の一部、中部地方の一部に限られ、南部はまったく恩恵に浴さなかった。そのために、イタリア半島の南北間の経済格差はさらに拡大した。
 第二には、消費産業の急成長と比べると公共サービス部門の成長は見劣りした。学校、病院、公共輸送機関、住宅などの設備は、スポーツカー、高級ファッションなどさまざまな消費の世界とは対照的に驚くほど貧弱だった。
 第三に高度成長の奇跡は、悲惨なまでに安い労働力によって生れたものであった。何十万もの農民たちが、主として南部から北部の都会へ流入したが、それらの農民たちの住宅事情と労働条件は、きわめて悲惨なものだった。
 一方で、1960年代に経済成長が推進されるなかで、中心的社会運動組織であった労働総同盟はその変化に十分対応できず影響力を低下させていった。特に、非熟練や半熟練労働者、女性、青年、南部からの移民労働者が増加し、賃上げと引き換えに労働条件の悪化を受け入れるなど、それらの層に問題が集中している状況に対応できなかった。
 1963年に社会党をも加えた中道左派政権がスタートし、教育、大学、都市問題、医療、福祉、行政組織などの課題に取り組む「改革」をあげて期待を集めながら、統一中学校導入と電力産業国有化を除きほとんど成果を挙げられないまま挫折した。このように中道左派政権、特に社会党の改革政策が失敗に終わったことは、改良主義への信頼を喪失させ、議会外行動や革命政治を叫ぶ者たちの影響力を強めることになった。
 こうして中道左派政権は、社会党をも巻き込んで政治の安定化を図りながら経済成長を軌道に乗せたが、経済成長にもかかわらず貧困が南部を中心に存続していたという解決されていない問題と経済成長によってもたらされた社会的格差の拡大を解決することができなかったために、68年、69年の全国的な学生、青年労働者の大規模な反乱に直面することになる。




(つづく)