大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「むかしMattoの町があった」 (43)

全国で自主上映
イタリア映画「むかしMattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/



 イタリアの精神保健改革の担い手の一つとして、キリスト教民主党の存在が大きいといわれている。

 イタリアでは19世紀後半以来、社会主義系とカトリック系の二つの潮流に分岐する形で労働運動や農民運動の伝統が作られていったという。
 社会主義系は中部のエミリアロマーニャ地方に、カトリック系は北東部のヴェネト地方に、労働組合、協同組合、文化組織などの強い組織ネットワークに支えられた地域的拠点を築いていた。そこでは、イデオロギー的、文化的な強固なアイデンティティを備えたそれぞれの文化圏が成立していた。
 しかし、ファシズム体制やナチス・ドイツの占領に対する抵抗運動を担ったキリスト教民主党社会党共産党による挙国一致政府の時期を経て、東西の冷戦対立のなかで、西側陣営を選択したキリスト教民主党は1947年5月には社会党共産党を排除した内閣の形成に踏み切り、1948年総選挙の単独過半数の獲得によって政権党としての地位を獲得する。
 こうして、与党のキリスト教民主党と野党の共産党という政治的構図が固定化するなかで、それぞれを中心にした文化が復活する。各分野の社会運動組織もまた、その二つの政党に系列化していく。

 イタリアのキリスト教民主党はどういう特徴をもっていたのだろうか。
須賀敦子は『コルシア書店の仲間たち』でつぎのように書いている。
「フランスのカトリック左派にくらべて(あるいは、政教分離の伝統をもっているフランスにくらべて)、キリスト教民主党というカトリック政党が与党として君臨し、かつてムッソリーニとヴァチカンが締結した政教合意条約に戦後もまた拘束されていたイタリアでは、政府によって宗教活動の自由が制約される度合がフランスにくらべてずっと大きかったこと、それに組織的な行動が不得手なイタリア人の気質もあって、フランスでのように、地道な神学者や運動を生むにいたらないで、主導者たちは、ダヴィデのように、むしろアジテーター的な性格の人が多かったように思う」
(注 ダヴィデ:イタリアで、カトリック教会を現代社会に組み入れ、聖と俗の垣根をとりはらおうとする「新しい神学」の運動を受けつぐ共同体、コルシア・ディ・セルヴィの活動をしていた神父。戦時中、反ファシズムパルチザン組織に参加していた。)

須賀がいうムッソリーニとヴァチカンが締結した政教合意条約とは、1929年2月に結ばれた「ラテラーノ協定」で、ファシズム政権は、教皇庁に対しヴァチカン市庁国創設の承認、カトリックを国家宗教とすること、初等教育ではカトリックの教えを義務づけることなどを条件にして教皇庁と合意し、カトリック信徒を政権の支持基盤とすることに成功したといわれている。

「イタリアのファシズムがナチ・ドイツよりもおだやかに国民を支配してしまった鍵は、ここにある。ムッソリーニ失脚以前に反ファシズムを唱える困難さは、ヴァチカンとファシスト政権との結びつきにあった。逆にムッソリーニ政権が倒れ、ナチ・ドイツ軍がイタリアに進駐したとき、パルチザンが戦い、やがて一般市民まで蜂起したのは、教会側が戦後を見つめ、政治的判断でムッソリーニを見限ったため、戦争末期には、カトリック信徒たちが反ファシスト組織や職業に応じて組合組織を作ったことが大きい。彼らの多くはカトリック信徒でありながらも社会主義共産主義に接近する。無宗教を原則とする思想との接近は、矛盾するようだが、貧富の差のない、新しい自由な世界を作ろうという目標で一致していた。「あたらしい神学」「カトリック左派」と呼ばれる運動の原点もここにある。
 戦争末期の教会側の動きで戦後、イタリア共和国が成立してもなおムッソリーニ教皇庁が結んだラテラーノ協定はそのまま残った。したがって、イタリアではカトリックは国家宗教であり続け、信仰の自由は保証されず、離婚は非合法であるというように、市民の日常生活をも束縛した。
 キリスト教民主党は戦争末期に各地で作られた信徒による組合組織を基盤として成立したものの、やがて米ソの対立のなかで反共の立場を選び、長期政権を執ることに成功する。この選択には教会側の意向が当然ながら反映している。」(「パルチザンの水脈の人々と共に」松山巖

1948年の総選挙によってキリスト教民主党の一党優位体制が確立されてからは、共産党系の社会組織などによる運動は、反対勢力としての影響力は限られたものにとどまっていたといわれる。


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しかしやがて、イタリアの変革のはじまりの「1968年」をむかえることになる。




(つづく)