大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかしMattoの町があった」(42)

全国で自主上映
イタリア映画「むかしMattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 了 (『フーコー思考集成』(筑摩書房)から)



195  「権力の眼」  1977

「私は十八世紀の後半、医療制度の改革の大きな運動が展開された時期における病院建築の研究をしようと思っていました。医学の視線がどのようにして制度化されたかを知りたかったのです。・・・・・・一七七二年のパリ市立病院の二度目の火事のあとの様々な建築計画を検討していて、体、個人、物が中央にすえられた視線からそっくり見えるようにするという問題が、まさに最も恒常的な指導原理の一つであったことに私は気づきました。・・・・・・・空間を分割しながらかつ同時に開放状態におくこと、監視すべき個人を注意深く隔離しながら、しかも包括的かつ個別的な監視を確実に行なう必要がありました。・・・・・「一望監視装置」のことですが。
 原理はこうです。周辺には現状の建物、中心には塔。塔にはいくつかの窓がうがたれていて、それが環の内面に向かって開いています。周辺の建物は独房に分けられ、独房のおのおのは建物の内側から外側までぶっとおしになっています。独房には窓が二つ、一つは内側に開かれて塔の窓と対応し、いま一つは外側に面して独房の隅々まで光を入らせます。そこで、中央の塔に監視者を一人おき、おのおのの独房に狂人、病人、受刑者、労働者あるいは生徒を一人入れればいいのです。逆光の効果により、周辺の独房に閉じこめられた小さなシルエットが光の中に浮きあがっているのを塔からとらえることができます。つまり土牢の原理を逆転させているのです。明るい光と監視者の視線は暗がり以上に捕捉力をもつものであり、暗がりというのは結局は保護するものだったのです。・・・・・・」



「一望監視装置とは、「城館」の形態(壁に囲まれた天守閣)を若干利用して逆説的に細部にわたって読みとれる空間を造り出すことだったのです。」



「視線は逆にごくわずかな費用しか必要とはしないでしょう。武器も、肉体労働も、物質的な拘束も必要ではありません。一つの視線があればいいのです。監視する視線、それが自分の上にのしかかっていると感じて、各人がとりこんで内面化してしまい自分自身を観察するようになってしまう視線が。そこで各人はその監視を自分の上に、わが意に反して行なうことになるでしょう。すばらしい方式です。継続的で結局のところごくわずかのコストですむ権力!・・・・・・・・」




202  「境界なき精神病院」 1977

「 我が国においては、精神病院の壁の外で機能し、命令よりも需要にこたえるような「地区的精神医療」が行なわれるようになった時、そして患者を移送し隔離するのではなく、その場に、彼らの生きてきた環境においたままとする、開放的、複数的、選択的な精神医療が行なわれるようになった時、おそらくは実際に、精神病院の凋落が準備されることになるだろう。しかし、それでわれわれは、十九世紀の精神医学と、それがそもそものはじめから孕んでいた夢と訣別することになるのだろうか。「地区」とは心の医学を、あらゆる所に現れてはすすんで介入しようとする公衆衛生のように機能させるための、もう一つの、そしてより柔軟な方法なのではないだろうか。・・・・・・・・・・」



209 「監禁、精神医学、監獄」 1977


「・・・・・・精神医学の医学的機能と警察機構の本来的な抑圧機能―が、ある時交差するかに見えるときがあります。でも、実のところ、その二つの機能は初めから一体のものでしかなかったんです。・・・・・・最初から精神医学は社会秩序を構成する機能たらんとする目的を持っていたのですよ。・・・・・われわれ精神病医は、社会秩序に与(あずか)る公務員なのだ。こうした無秩序状態を正すのはわれわれの責務であり、われわれこそ、公衆衛生の問題を決定する一要素なのだ、これこそ、精神医学の使命だ、とね。これが精神医学の風土であり、それが誕生する地平だったのです。・・・・・」



212  「権力、一匹のすばらしい野獣」 1977


「・・・・・あらゆる関係がこうして医学的な思考、医学的な配慮によって寄生されているのです。・・・・・医学的思考ということで私が理解しているのは規範を中心にして組織されるような知覚の仕方、つまり、正常なものと異常なもの、これは必ずしもちょうど適法なものと不適法なものに相当するわけではありませんが、とにかくそういう正常なものと異常なものを分割しようとする知覚の仕方のことです。それは矯正手段を兼ね備えていますし、そういうものを兼ね備えようと努めてもいますが、その矯正手段というのは、正確には処罰の手段のことではなく、個人を変貌させる手段やそれに結びついた人間の振る舞いに関するテクノロジー一式のことです。・・・・医学化、規範化に伴って、有能か有能でないかということで個人に関して一種の階層秩序が得られます。何らかの規範に従う人と別の手段を使って矯正しなければならない人という具合にです。私はそう思うのですが、こうした一切のこと、このように規範性に応じて個人を考慮するようになったことこそ、現代社会における権力の大きな道具の一つなわけです。・・・・」





フーコー語録おわり!