大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「むかしMattoの町があった」 (41)

全国で自主上映
イタリア映画「むかしMattoの町があった」
監督:マルコ・トゥルコ 制作:クラウディア・モーリ
時間:第1部(96分) 第2部(102分)
http://180matto.jp/




フーコー語録 29 (『フーコー思考集成』(筑摩書房)から)



170   「医学の危機あるいは反医学の危機?」  1976


ベヴァリッジ計画(*1942年イギリスの経済学者ベヴァリッジが唱えた社会保障制度の提言)はイギリスのみならず多くの国々で、第二次世界大戦直後に保健衛生を組織化するにあたってモデルとなったものでした。・・・・・・・ベヴァリッジ計画は、国家が国民の健康を引きうけるということを示しています。・・・・・・

二十世紀半ばまで、国家にとって健康を守るというのは主として国民の身体的力や、労働力や、生産能力や、軍事力を保護することを意味していたのです。それまで国家医学がおもにめざしていた目的は人種的なものではないにしても、少なくとも国家主義的なものでした。ところがベヴァリッジ計画によって、健康が国家にとって配慮の対象に変わったのであり、しかも国家自体のためでなく諸個人のためにそうなったのです。こうして人間がみずからの体を健康に保つという権利が国家的な活動の対象になり、その結果、問題の視点が逆転します。国家に奉仕する健康な個人という概念に代わって、健康な個人に奉仕する国家という概念が生れたのです。・・・・・・

ひとはもはや、健康を享受するために清潔や衛生をこころがけるという義務について語るのではなく、そうしたいとき、またそれが必要なときは病気になる権利もあるのだ、と言うようになります。仕事を中断する権利が実体化しはじめ、かつて諸個人とその身体の倫理的関係を特徴づけていた清潔という古くからの義務感よりも、いっそう重要なものなったのです。
 ベヴァリッジ計画とともに、保健衛生がマクロ経済学の領域に入ってきます。・・・・こうして健康―あるいは健康の欠如―、そして諸個人の健康を守ることを可能にしてくれるさまざまな条件の全体が支出の源となり、それはかなり高額であるために、財政制度がどのようなものであれ国家の重要な予算項目のひとつになっています。・・・・健康、病い、そして健康に必要なものをどのように確保するかということをつうじて、ある種の経済的配分を行なうことが問題なのです。・・・・・・・健康、病い、身体が国家管理の基盤をもちはじめ、それと同時に、国家が諸個人を管理するための手段に変わります。・・・・・個人の身体は国家が介入する主要な目的のひとつ、国家自身が引きうけなければならない重要な対象のひとつになりました。・・・・・・」



「 二十世紀の医学は、病人の要求、その苦痛、症状、不安などによって定められる伝統的な領域の外部においても機能するようになりました。それが医学的な介入を助長し、また患者の要求に医学的な資格を付与する、病気と呼ばれる一連の対象によって規定される活動分野の境界線を定めています。・・・・より頻繁に起るのは、医学が病気であれ健康であれ個人にたいして、権威的な行為として強制されるということです。・・・・・一般的には、保健衛生が医学的な介入の対象に変わったと言えるでしょう。・・・・・・実際、個人や集団の生活のますます広い領域において医学が権威的に介入するというのは、きわめて特徴的なことです。現在、医学はさまざまな規範化の機能をそなえた強制的な権力を有しており、それは病気や病人の要求の存在をはるかに超えています。・・・・社会を支配しているのは法律ではなく、正常と異常の絶えざる区別、規範性の制度を復活させようとする絶えざる試みにほかなりません。・・・・・・・」



「現在の状況に特有なのは、医学がかつてとは異なる側面で経済的な大問題と関係していることです。・・・・単に医学が労働力を再生産できるからだけではなく、健康でいることがある者にとっては欲望であり、またある者にとっては贅沢なのだというかぎりにおいて、医学は直接的に富を生み出すのです。消費の対象になった健康、いくつかの製薬研究所や医者たちによって生産され、他の人々―潜在的な病人や実際の病人―によって消費される対象になった健康が、経済的な重要性をおび、市場のなかに入ってきたのです。・・・・・人間の身体は感覚や欲望などの対象になるかぎりにおいて、健康や病いを経験し、快楽や不快、喜びや苦しみを感じるやいなや、たちまち経済市場のなかにあらためて組みこまれるのです。
 健康にまつわる消費を媒介にして人間の身体が市場に組みこまれた時から、さまざまな現象があらわれ、それが現代の保健衛生システムと医学システムに機能障害を引き起こすようになります。・・・・・・・」
 
 

「医者が受けとる報酬は、いくつかの国々ではたしかに高額に上りますが、病気と健康から派生する経済的利益のうちのごく一部にすぎません。健康からもっとも大きな利益を得ているのは、大手の製薬企業なのです。実際、医薬品産業は、どうしても病気からみずからを守らなければならない人々が払う資金を集める社会保険制度を介して、健康と病気のための集団的出資によって支えられています。この状況が健康のために消費するひとたち、つまり社会保険に加入しているひとたちの意識にまだはっきり上っていないにしても、医者のほうはよく知っていることなのです。医者は自分たちが医薬品産業と患者の要求のあいだに立つほとんど自動的な媒介者になってしまったこと、つまり単に薬を配ったり投与したり者にすぎないということを、日々はっきりと自覚しています。・・・・・・・・」



「・・・・次のように主張しなければなりません。医学をそれ自体として拒否したり支持したりしてはならない、医学は歴史的システムの一部であり、純粋科学ではない、医学はひとつの経済システムと権力システムの一部であり、どの程度まで発展モデルを変更したり適用したりできるのか決定するために、医学と経済と権力と社会の関係を明らかにする必要がある、と。」





(つづく)