大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録(24)

・・

映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



<西ヨーロッパからの移送>

スウェーデン
 ドイツに占領されなかった。

フィンランド
 戦争においては枢軸側についていたにもかかわらず、ナツィは ユダヤ人問題を持ち出さなかった(除外した)。


ぅ痢璽襯ΕД

デンマークには言うに足るほどのファシスト運動もしくはナツィ運動はなく、したがって対独協力者はいなかった。
これに反してノールウェィではドイツは熱狂的な支持者を見つけることができた。事実ノールウェィの親ナツィ的・反ユダヤ人的政党の指導者ヴィドクン・キスリングは、後に<キスリング政府>として知られるものの名づけ親になっている。
ノールウェィの一万七千のユダヤ人の大多数は無国籍であり、ドイツからの避難民であった。彼らは1942年の10月と11月に、数回の電撃的な手入れで逮捕され拘置された。アイヒマンの課が彼らをアウシュヴィッツへ送ることを命じたとき、キスリング自身の部下の幾人かは政府部内の地位を去った。・・・・・
またまったく予期されていなかったに相違ないのは、迫害されたユダヤ人のすべてにスウェーデンがただちに避難所を提供し、時にはスウェーデン国籍をすら与えようとしたことである。これについての申出を受けた外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーは話し合うこと拒んだが、しかしこの提案はユダヤ人を助けた。
非合法に出国することはすることは常に比較的容易だが、許可を得ずに避難の土地に入り、また入国関係当局の目をくらますことはほとんど不可能だからである。それ故ノールウェィの小さなユダヤ人社会の半ばをわずかに越える九百人がスウェーデンに忍びこむことができただけだった。」



ゥ妊鵐沺璽

デンマーク国民とその政府の行動はー被占領国であれ、枢軸の一員であれ、あるいは真に独立の中立国であれーヨーロッパのすべての国のなかで独自のものだった。はるかに強大な暴力手段を所有する敵に対する場合、非暴力的行動と抵抗にどれほどの巨大な潜在的な力が含まれているかを多少とも知ろうとするすべての学生に、政治学の必須文献としてこの物語を推奨したいという気持ちになる。・・・・・
いかにもヨーロッパのいくつかの国は正しい<ユダヤ人問題の理解>を欠いており、事実その大部分はその<徹底的>かつ<最終的>な解決に反対した。
デンマークと同じくスウェーデン、イタリア、ブルガリアも反ユダヤ人主義をほとんど免れていることを証明したが、しかしドイツの勢力圏内にある三ヵ国のうちデンマークだけがこの問題について自分の支配者であるドイツにあからさまに物を言う勇気を持っていたのである。
イタリアとブルガリアはドイツの命令を実行せず二股膏薬や面従腹背のややっこしい手管を弄し、まことに巧妙きわまる離れ技を演じて自国のユダヤ人を救ったが、その政策そのものには一度も異議を唱えなかった。これはデンマーク人のしたこととは全然違っていた。ドイツがどちらかといえば慎重に黄色いバッジの採用の件を持ち出して来たとき、デンマーク人は国王がまず第一にそのバッジをつけるだろうとだけ答え、そしてデンマーク政府の官吏はどんな種類のユダヤ人弾圧措置がおこなわれても自分らはただちに転職すると注意することを忘れなかった。」


「ドイツ人は六千四百人ばかりのユダヤ系のデンマーク人と、戦争前にこの国に避難し、今はドイツ政府によって無国籍と宣せられている千四百人のドイツ系ユダヤ人の避難民とのきわめて重大な差別を認めさせることにすら成功しなかったが、これはこの問題全体について決定的なことだった。
この拒絶はドイツ人にとって非常に意外だった。帰化を許すことをきっぱり拒絶し、就労すらも許さないでおきながら、その民族を保護するなどということは一国の政府としてはまことに<非論理的>だと思われたのだ。
法律的には戦前のデンマークにおける避難民の状況はフランスにおけるそれとそう異なるものではなかった。ただフランス第三共和国の官界の全般的な腐敗のためにユダヤ人のうち少数のものは賄賂または<縁故>によって帰化証明書を手に入れることができたし、フランスへの避難民の大部分は許可証なしに非合法に就労することができた。・・・
けれどもデンマーク人はドイツの当局者に無国籍ユダヤ人はもはやドイツ市民ではないのだから、ナツィはデンマークの同意なしに彼らを要求することはできないと言明したのである。これは無国籍ということが利益であるという結果になった数すくない場合の一つであるが、ユダヤ人を救ったのは勿論無国籍ということ自体なのではなく、デンマーク政府が彼らの保護を決意したという事実なのだ。こうして・・・・、作業は1943年の秋まで延期されたのである。」


「1943年8月ーロシアにおけるドイツ軍の攻撃が失敗し、アフリカ軍団がチュニジアで降伏し、連合軍がイタリアに進攻した後ースウェーデン政府はドイツ軍に領土を通過する権利を認めた1940年の対独協定を廃棄した。そこでただちにデンマークの労働者たちは自分らも事態を促進するのに多少力をかすことができると思った。暴動はデンマークの造船所ではじまり、ドックの労働者たちはドイツの船を修理することを拒み、次いでストライキにはいった。ドイツ軍司令官は非常事態を宣し、戒厳令を布いた。
そしてヒムラーは今こそその<解決>が長いこと遅れているユダヤ人問題をかたづける絶好の機会だと考えた。
このとき彼は、この国に何年も住んでいるドイツ人当局者自身以前とはすっかり変ってしまっているということを考慮に入れなかった。・・・・デンマークに派遣されていた特殊SS部隊すらもーニュールンベルク法廷におけるベスト(*SS幹部でデンマークの総督)の証言によればー「中央当局から実施を命じられていた措置」に反対することが非常にしばしばだったのである。・・」


「(ナツィは1943年)10月1日の夜に彼ら(ユダヤ人)を逮捕し、ただちに送り出すことに予定されたが、デンマークからもユダヤ人からもデンマーク駐屯のドイツ軍部隊からも協力を期待し得ないので、戸別捜索のためにドイツから警察部隊が投入された。・・・・・・この運命の日の数日前にドイツの海運業者ゲオルク・F・ドゥクヴィッツが、おそらくベスト自身から内報を受けたのであろうが、計画のすべてをデンマーク政府職員に打明け、そしてこの職員がまた急いでユダヤ人団体の首脳たちに通報したのであった。この首脳たちは他の国々のユダヤ人指導者たちとはいちじるしく対照的に、新年の礼拝の機会にシナゴーク(*ユダヤ教の会堂)で公然とこのニュースを知らせた。ユダヤ人たちは自分の家を去って身をかくす余裕が充分あったし、身をかくすことはデンマークではまことに容易だった。なぜなら国王から普通の市民にいたるまでデンマークの国民の各層はユダヤ人を受容れることを拒まなかったからである。・・・・」


「彼ら(*ユダヤ人)をスウェーデンに送りこむのが合理的であると思われたので、この移送はデンマークの漁船を借りておこなわれた。金を持っていないユダヤ人たちの運賃―一人あたりおよそ百ドルーは裕福なデンマーク市民から充分に拠出されたが、多分これこそ最も驚くべき美挙であったろう。なぜなら当時ユダヤ人は自分の強制移送の費用を払わされ、ユダヤ人のなかで富裕なものは地方当局を買収するなりSSと<合法的に>取引するなりして出国許可のために大金を投じていたのだから(オランダ、スロヴァキア、そして後にはハンガリアでも)。しかもSSは硬貨しか受取らず、オランダでは一人につき五千から一万ドルもの高値で出国許可を売っていた。・・・貧しい連中が脱出する可能性は皆無だったのである。・・・・・
スウェーデンは5919人の難民を受容れたが、そのうち1000はドイツ系、1310はユダヤ人と結婚している非ユダヤ人だった。デンマークユダヤ人のほとんど半数は国にとどまり、潜伏して戦後まで生き伸びた。」


「政治的にも心理的にもこの事件の持つ最も興味をひく面はおそらく、デンマークにおけるドイツ当局の演じた役割、ベルリンからの命令のあきらかなサボタージュであろう。これはわれわれの知るかぎりナツィが住民の公然たる抵抗にぶつかった唯一の例であり、そしてその結果は、抵抗に直面したもののほうが自分の考えを変えたことであるように見える。彼ら自身一民族の殲滅ということをもはや当然のこととして見なくなったらしい。彼らは原則に拠(よ)って立つ抵抗にぶつかったのであり、彼らの<厳しさ>は日光にさらされたバターのように溶け去り、それのみか彼らは真の勇気をおずおずとながら少々示しはじめたのだ。
おそらくわずかばかりの半狂人の残忍な連中の場合を除けば、<厳しさ>の理想は、どんな犠牲を払っても大勢に順応したいという有無を言わさぬ欲求を秘めた自己欺瞞の神話以外の何ものでもなかったのだが、このことはニュールンベルク裁判においてはっきりとさらけ出された。この裁判では被告たちはたがいに他を非難し合い裏切り合って、自分は「いつも反対だった」と断言し、あるいはアイヒマンが後にするように、自分の最も優れた長所が士官たちに<悪用>されたと主張したのである。」







(つづく)