大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(25)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



<西ヨーロッパからの移送>


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「イタリアは対等に扱われ独立主権国として尊重されたヨーロッパで唯一のドイツの真の同盟国だった。・・・・

そしてムッソリーニがかつてドイツのナツィの仲間に非常に感服していたことも事実である。しかし戦争が勃発し、多少の逡巡の後にイタリアがドイツの味方に加わったときには、それはもう過去のこととなっていた。ナツィはイタリアのファシズムよりもスターリン流の共産主義のほうに自分らとの共通点があることを充分心得ていたし、ムッソリーニのほうにはドイツに対する信頼もヒットラーに対する感嘆ももうそれほどなかった。
けれどもこうしたことは、特にドイツでは最上層の秘密に属しており、全体主義政権とファシズム政権とのあいだにある深い決定的な相違は世間一般では決して完全に理解されてはいなかった。こうした相違が最も明白にあらわれたのはユダヤ人問題の取扱い方においてである。」



「1943年夏のバドリオ(*イタリア王国の首相、軍人)のクーデタ以前、そしてドイツ軍のローマおよび北イタリア占領以前には、アイヒマンと彼の部下はこの国で活動することを許されていなかった。
しかし、彼らは(*ユダヤ人問題について)何も解決しないというイタリアのやり方をフランス、ギリシャユーゴスラヴィアというイタリア占領地域で見せつけられていた。なぜなら迫害されたユダヤ人は絶えずこれらの地域へ逃げこみ、そこで一時的な安全を得ていたのである。
アイヒマンの仕事などよりもずっと高いレヴェルでイタリアの最終的解決のサボタージュは由々しいものになっていたが、それは主としてヨーロッパの他のファシスト政府ーフランスのペタン政府、ハンガリアのホルティ政府、ルーマニアのアントネスク政府、それのみかスペインのフランコ政府ーに対するムッソリーニの影響力のためだった。イタリアが自国のユダヤ人を殺さないですんだとすれば、他のドイツの衛星諸国も同じようにしようとするだろう。・・・・・・
(*ナツィとの)約束はムッソリーニ自身、もしくは他の高位の当局者によってなされたが、将軍たちがそれをしなかった場合
ムッソリーニは彼らの<教養が違う>からと言って将軍たちのために弁解するのだった。ナツィにきっぱりとした拒絶を投げつけることはたまにしかしなかったが、たとえばロアッタ将軍はユーゴスラヴィアイタリア軍占領地域のユダヤ人をドイツの関係当局に引渡すことは『イタリア軍の名誉を汚す』と言明したものである。・・・・・

イタリア軍ユーゴスラヴィアの占領地帯を去ったときにも同じことが起った。ユダヤ人はイタリア軍とともに去ってフィウメ(*イストリア半島の付け根にある都市で、当時イタリア系住民が多数を占めた。現在はクロアチア共和国のリエカ)に逃れたのである。」



ムッソリーニはドイツの圧力を受けて(19)30年代の終り頃ユダヤ人弾圧法を採用したとき、一般的な免除対象ー従軍軍人、高級勲章の受勲者などーを定めたが、それにもう一つのカテゴリーをつけくわえた。
すなわちファシスト党の旧役員とその両親、祖父母、妻、子、孫というカテゴリーである。・・・・イタリア系ユダヤ人の大多数が免除される結果になったに相違ない。すくなくとも一人のファシスト党員を含まぬ家族はほとんどなかったろう。
なぜならこのことがあったのは、官公吏の地位はもっぱら党員にしか与えられなかったためにユダヤ人も他のイタリア人たちと同様ファシスト運動に大挙して参加するようになってからもうほとんど二十年にもなっていたからである。・・・・

イタリアは現実に反ユダヤ人的措置が何としても一般から嫌われていたヨーロッパで数すくない国の一つだった。・・・・」



「同化という言葉はひどく濫用された言葉だが、この同化はイタリアでは事実となっていたのである。イタリアには五万人を越えぬ土着のユダヤ人の社会があり、彼らの歴史ははるかローマ帝国の時代までさかのぼるものだった。ここでは問題はドイツ語圏のすべての国におけるようにイデオロギーでも信じねばならないことでもなく、またフランスで特にそうだったように神話でも明瞭な自己欺瞞でもなかった。
イタリアのファシズムは、<容赦ない厳しさ>の点でおくれを取るものではなく、戦争勃発前に外国系および無国籍ユダヤ人を自国から一掃しようとすでに試みていた。
しかしこれは、イタリアの下級官吏たちが一般に<厳しく>することを好まないために遂に成功しなかった。そして事が生死にかかわる問題になったときに、主権を維持するという口実で彼らはこの部類のユダヤ人を引渡すことを拒んだ。そのかわり彼らはこのユダヤ人たちをイタリアの収容所に入れ、ドイツがイタリアを占領するまでユダヤ人たちはそこで安心していられた。
このような行動は客観的条件ー<ユダヤ人問題>が存在しないことーだけでは説明できない。なぜならこれらの外人は、その住民の人種的文化的同質性の上に成り立っているヨーロッパのすべての国民国家におけると同様、当然イタリアでも問題をひきおこしたからである。
デンマークでは真に政治的な意識の、市民権と国の独立の要求およびこの二つのものに対する責任についての生得の理解の結果だったものが、イタリアでは古い文明国民のすべてに行きわたったほとんど無意識的な人間味の所産だったのである。」



「さらにイタリア人の人間味は戦争の最後の一年半のあいだにこの国民に襲いかかった恐怖の試練にもよく堪えて見せた。
1943年12月、ドイツ外務省はアイヒマンの上官ミューラーに正式に援助を求めた。
『統領の勧告したユダヤ人弾圧措置の実施に関して最近数か月イタリア人当局者の示した不熱心さにかんがみて、外務省はこの実施が・・・・ドイツ人当局者によって監督されることが緊急に必要であると考える。』
そこでルブリン地域の死の収容所のオディロ・グロボクニクのような名立たるユダヤ人殺しどもがポーランドからイタリアへ急派された。・・・・」



アイヒマンの課は「イタリア系ユダヤ人」もただちに「必要な措置」に服するものとされると告げた回章を出先機関に発送した。第一撃はローマ在住の八千人のユダヤ人に加えられ、イタリア警察は信用できないのでドイツの警察隊の手で彼らを逮捕することとされた。
ユダヤ人たちは警告を受けーそれもしばしば年期を入れたファシスト党員からー、七千人が逃れた。
ドイツ人は抵抗に出逢ったときにはいつもそうするように譲歩し、イタリア系ユダヤ人は免除対象のカテゴリーに入らない場合すらも移送されず、イタリアの収容所に集結されるにとどまることを了承した。
この<解決>はイタリアに関するかぎり充分<最終的>であるとされた。北イタリアのおよそ三万五千のユダヤ人が捕えられ、オーストリア国境近くの強制収容所に入れられた。
1944年春に赤軍(ロシア)がルーマニアを占領し連合軍がまさにローマに入城しようとしたとき、ドイツは約束を破ってユダヤ人をイタリアからアウシュヴィッツへ送り出しはじめた。その数は七千五百人だったが、そのうち帰って来たものは六百人以上ではなかった。それにしても死者の数は当時イタリアに住んでいた全ユダヤ人の10%をはるかに下まわっていたのである。」

http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611/54010684.html






(つづく)