大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-(13)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房





「ナツィ・ドイツの降伏後、連合国側はドイツ住民の中から一人でも確信的なナツィを探そうと無駄骨を折ったが、このことをドイツ民族の80パーセントまでがかつて一度はナツィの心からの信奉者もしくは共感者だったことがあるという事実と矛盾はしない。
これは人間一般の弱さとかドイツ人に特有のオポチュニズムとかの表れ以上のものなのである。イデオロギーとしてのナツィズムは運動の組織と第三帝国の組織の中で余すところなく「実現」されていたため、その内容は特定の教義の一体系としては何ひとつ生き残らず、現実から自立した精神的存在としてのイデオロギーはなくなっていた。
それ故に実際にナツィの虚構が崩れ去ったときには、あとには文字どおり何ひとつ残らず、盲信のファナティシズムさえあとかたなく消え失せたのである。」




擬制的世界のリアリティーが最もよく証明されるのは、メンバーが共犯者となる結果を甘受することより運動を脱退することのほうが恐ろしいと思い、たとえ非全体主義的な条件のもとで運動が官憲によって迫害されている場合でも、運動の一員であるほうが運動の敵であるよりも安全だと全員が感じるようになったときである。
運動の擬制的世界を守っているのは決して党内のテロルだけではない。それと同じ程度に働いているのは、大々的に宣伝されている運動の犯罪に対してはすべてのメンバーに共同責任があると外部世界に思われているという自覚、そしてその外部世界に対して自分たちを守ってくれるのは精鋭組織とその組織化された暴力だという自覚なのである。」




「指導者の個人的能力が不可欠の重要性を持っているのは、運動が全体主義化への途上にある間だけである。
完全に発達してしまった後の全体主義運動自体にとっては、運動の中心に立つ<指導者>の機能と地位のほうが彼の個人的特性より遙かに重要性を持つ。
「総統の意志は党の法律である」という原則が意味しているのは、全体主義ヒエラルヒー全体はこの「意志」をすべての階層において直ちに実現することを唯一の目的として組織されている、ということである。
運動がこの段階に達した時には、<指導者>はかけがえのない存在となる。なぜなら運動の複雑な全構造は<指導者>の命令がなければ忽ちその存在理由を失い、自らを破壊するようになるからである。」




「 「仲間たることが明確な者以外はすべて排除される」という秘密結社的な原則を大衆組織に適用しようとしたナツィは、単なるユダヤ人の排除だけではあきたらず一つの複雑な官僚機構を設置したが、この役所の唯一の任務は、八千万のドイツ人の手助けをして彼らの祖先にユダヤ人の血が流れていないかどうか調べることだった。この八千万の人間が恐る恐る自分にはユダヤ人の祖父がいないかと探しにかかったとき、それは一種の秘密結社入会式となった。
事が終ったとき誰もが、自分は「仲間うちの者」のグループに属し、反対側には「排除された者」の群がいるのだという気持ちになったのである。
ボルシェヴィズム運動は定期的な粛清によってこれと同じ目的を達した。粛清が終るごとに排除を免れた者はみな、自分が「仲間うちの者」のグループに属していることを改めて確認してもらったように感じたのである。」



「運動における儀式の役割は、運動と秘密結社の類似性を特によく示している。モスクヴァの赤い広場における行進は、ニュルンベルク党大会の華麗な祭典に劣らずこの点で典型的なものである。ボルシェビキーの儀式の中心はレーニンのミイラになった屍であり、ナツィの儀式の中心は「血の旗」だった。
これらはしかし厳密には偶像ではなく、その儀式は疑似宗教運動もしくは異教運動におけるような偶像崇拝ではない。それらは組織上の仕掛け以外の何ものでもなく、昔から秘密結社が会員の秘密保持と忠誠心を確保するために使ってきた気味の悪いシンボルや仕草と同じである。
ここで生み出されるのは神秘的な行為の体験であって、そのような体験自体が、秘密を分かち合っているという冷静な意識よりも人間を効果的かつ確実に結合する。」



ヒットラースターリンも現代的な秘密結社のメンバーだった。(ヒットラー国防軍のスパイ組織にいたし、スターリンロシア共産党の謀略機関で成長した)ことは特徴的ではあるが、これだけでは全体主義運動と秘密結社のこれほど著しい類似性に対する充分な説明とはならない。
この類似性を生んだもっと本質的な原因となったのは、全体主義運動自体の持つ陰謀フィクションーすなわちユダヤ人の陰謀団やトロッキーの陰謀団という秘密結社と戦うために自分たちの運動は設立されたのだとするフィクションである。」







つづく

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