大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

バザーリア語録(8)

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イタリアの精神保健改革の中心人物、
フランコ・バザーリアの言葉

『プシコ・ナウティカ イタリア精神医療の人類学』
 (松嶋健 著 世界思想社 2014年7月発行)から

<参考>
映画「むかしMattoの町があった」
http://180matto.jp/





「寛容の施設とは、暴力施設の非弁証法的なもう一つの顔であり、その巨大な偽りの効能のもと、本質的かつ意図的に効能がないということを隠蔽する機能をあらわにする。
本当の問題に向き合うというのは、すべての現実を議論に付すことを意味する。
しかしこの社会システムのなかでは、どの分野においても技術者たちは、専念するべき偽の問題を生み出すことで、新たなイデオロギーの促進者という役割を受容れ続けているのである。
なぜなら現実というのは、それに耐える者にとって、変えることができないものとして立ち現われ続けているからである。」
(1969)




「精神病院という次元の否定は、開放精神科病棟と地域精神医療の背後にある精神病院の存在そのものを破壊することによって実現する。
処遇困難な患者のゴミ捨て場として精神病院が機能し続けるかぎり、その他のことはすべて欺瞞である。」(1969)




パルマ大学では八年間、精神衛生について教えていたのですが、その間ずっと私は、ペスト患者のように隔離されていました。
でも幸い講義には多くの学生がいましたので、そのなかの少なからぬ者を「堕落させた」のではないかと私は願っていますよ。」



「私たちは病院の外にとても居心地のいい場所を見つけたので、そこで、精神病院の外で病気に向かい合うことにしたのです。
すると、精神病者の危険性と結びつけられていた諸問題が軽減していくのを目の当たりにすることになりました。
私たちの前には、もはや一つの「病気」があるのではなく、代わって一つの「危機」が立ち現れてきたのです。

 今日私たちは次のことを強調しなければならないでしょう。
彼らを精神病院に連れてくるにいたった状況とは、「生の危機」であって、決して「統合失調症」、すなわちある制度化された状況としての診断ではないということ。
それゆえ私たちは、あの「統合失調症」をある危機の表現、実存的であれ社会的なものであれ家族的なものであれ、そんなことは重要ではない、とにかく一つの「危機」の表現であると見ていたのです。
問題を危機と見るのか、それとも診断と見るのかは全く別のことです。
なぜなら、診断は客体であるのに対し、危機というのは主体性の問題だからです。」



「こうした状況において、所与としての病気に対してどのように相対すればよいのだろうか?
いまだわれわれが触れえない別の場所でなければどこで、病気を認め、それを特定することができるのか。
原因をただ病気に帰するだけで、われわれを病者から隔てる距離の特性を無視しうるのだろうか。
それともその前に、客体化の皮を一枚一枚取り除いていって、何が残るか見てみたくはないだろうか。」
(1968)






(つづく)


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