大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-(12)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




「周知のようにユダヤ人の世界陰謀の作り話は、権力掌握前のナツィのプロパガンダのうちで最大の効果を発揮した嘘となった。反ユダヤ主義は十九世紀以来、デマゴキー的プロパガンダの最も効果的な武器となっており、ナツィが手を貸すまでもなく、すでに(19)20年代のドイツとオーストリアで世論の最も強力な要素の一つをなしている。・・・・・

 反ユダヤ主義的な(*第一次大)戦後プロパガンダの諸テーマは、ナツィの創作でも独占物でもなかった。ユダヤ人の世界陰謀に関するさまざまな嘘は、ドレフェス事件以来いたるところに流布されていて、各地に散在するユダヤ民族が実際に国際的結びつきを持ち相互に依存し合っているという現実的基礎を持っていた。ユダヤ人の権力に関する本質的には無害な、民衆的な伝説の形で誇張された作り話は、十八世紀の末、ユダヤ資本と国民国家財政の密接な関係が明らかとなった時期に源を持っている。
ユダヤ人をありとあらゆる悪の権化と見、そのとき次第で違う悪の権化に仕立てたことは、大抵は中世的な迷信の残滓と看做されているが、事実はむしろ、ユダヤ人が解放以後、近代ヨーロッパ社会の中で果たしてきた曖昧な役割に起因することなのである。確かなのは、ユダヤ人がこの戦後の時期にかつてないほど目に立つようになり、文化的=公的生活において強大な影響力をふるうようになったことである。」




「ナツィのプロパガンダの真の新しさは、反ユダヤ主義を自己規定の原理としたこと、そしてそれによって反ユダヤ主義を絶えず変動する意見の奔流から切り離してしまったことである。大衆デマゴキーはこのための一つの準備にすぎず、それ自体が永続的効果を持つー演説の場合であれ、ジヤーナリズムを通じてであれーというような過大評価がされたことは決してなかった。
アトム化され、定義し得ない存在となり、実体を失った個人からなる大衆にとっては、これは自己確認の一手段が与えられたことを意味した。これは彼らの失われた社会的威信のまことに有効な代償物たり得たし、また同時に、新しい自己確認の与えてくれる見せかけの安定性を得た者は、ナツィ組織に加入するのにきわめて有利な資格を得ることにもなったのである。
初めから組織を狙いとしたこのプロパガンダはアトム化した社会の孤立した個人の中に大衆集会が呼び覚す加熱した自意識やヒステリー的自信という本質的には一時的なあの気分に理論的基礎を与えて恒久的に持続させることができたのである。・・・・

ナショナリズム社会主義がそれぞれに政治的ファナティシズムの人気の焦点となっていた時代、そしてこの二つのスローガンが右翼と左翼を分けるイデオロギー上の分水線となり、そのためこの両者は絶対に統合不可能であると信じられていた時代にあって、「国民社会主義ドイツ労働者党」は言葉の市場に国民的統一を約束するジンテーゼを投げ与えた。ナショナルと社会主義という二つの言葉を結びつけただけではまだ足りずに、<右翼の>「ドイツ」と<左翼の>「労働者」という双方の商標を念のため貼り付けたこの党名によってすでに、運動は他のすべての政党からそれらの政治的内容を盗み取り、運動がそれらのすべてを一身に体現しているかのように見せかけたのである。」




「 権力掌握前のナツィ・プロパガンダは、民族共同体を特に共産主義プロパガンダの謳う階級なき社会への回答として使った。まさにこの点では、民族共同体はまたとない長所を示してくれた。階級なき社会という概念には非イデオロギー的かつ正義の要素がまだ非常に生き生きと保たれていたため、プロパガンダとしてはこの概念は民族共同体との競争でたちまち敗退してしまった。
大衆の耳に、そして大衆以前のモッブの耳に聞えたことといえば、階級なき社会における一切の社会的差異と富の差の平均化は、どう見てもみんなが熟練労働者の身分になるところまで行くのが関の山だということだけだった。
それに引きかえ民族共同体のほうは、世界陰謀と世界征服を言外に匂わせることによって、すべてドイツ人は最後には工場所有者の身分になれるとの期待を抱かせたのである。大衆とモッブにとっては、民族共同体は国民社会主義の社会政策のシンボルだった。
それも完全に、ヒットラーが定式化した次の言葉のような意味においてである。
ー「将来の社会秩序がどのようなものになるか・・・・それを諸君に言おう。・・・・・ドイツ民族は世界の支配層となるべき役割を担っている。・・・・だがそれならば、従えられるべき異種族もまた存在することになる。それらの連中をわれわれは現代の奴隷種族と正しく呼ぼう・・・・・。」(1933演説)

ナツィ運動にとって大きな意味を持っていたのは、運動の外部の客観的条件によって実現が左右される階級なき社会とは異なり、民族共同体は主要な敵とされたユダヤ人に対する戦いによって結ばれた「宣誓による血族共同体」であるから、それは直ちに運動の中で実現され得る、すなわち一方ではすべての社会的差異を均等化によって、他方では全員に要求されるユダヤ人憎悪によって実現可能である、という点だった。これによって民族共同体は運動そのものの虚構の世界の名称となったのである。」








(つづく)


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