大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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バザーリア語録(7)

イタリアの精神保健改革の中心人物、
フランコ・バザーリアの言葉

『プシコ・ナウティカ イタリア精神医療の人類学』
 (松嶋健 著 世界思想社 2014年7月発行)から

<参考>
映画「むかしMattoの町があった」
http://180matto.jp/




「この文脈において、事故はもはや、監視が足りなかったことによる悲劇ではなく、施設の側の支えが足りなかったことを意味する。患者、看護師、医師によって支えられた施設の行為は、ときに不足することがありえ、空白を生じ、そこに事故が入り込む。欠けた行為、怠慢、不正というのは、いつも論理的な結果をもたらすものだが、ここにおいて病気の果たす役割は相対的なものでしかない。」
(1968)




「開放化された病院は、現実的に排除された者であるという意識を病者に目覚めさせるように作用する。(中略)

一方でまた、開かれた施設は、階級と役割の明確な分離を維持する不透過な区域やカテゴリー、コード化の上にその安全と均衡を打ち立てている社会的現実のなかの矛盾として、精神科医と治療スタッフを巻き込んでその意識を目覚めさせずにはおかない。
彼らは、一部、共犯者であり、一部、犠牲者であるような現実のなかにいることに気づく。(中略)

こうした状況において、一体誰に責任があるのか?
病者は退院するかもしれない。しかしそこで彼が見出すのは、家族に拒否され、職場に拒否され、友人に拒否されるということ、余計者として暴力的に彼を追い返そうとする現実に拒否されるということなのだ。自殺するか、あるいは誰であれ彼にとって問題となっている暴力を体現している者を殺す以外に、何ができるというのか。このようなプロセスにおいて、正直、病気についてだけ語ることなど誰にできようか。」
(1968)



オルタナティブ(*代替方法)がなく、選択と責任を引受ける可能性のないところでは、唯一の可能な未来は死である。
耐えがたい生活の状況の拒否として、自身がモノ化されてしまった境遇に対する抗議として、唯一可能な自由の幻想として、唯一可能なプロジェクトとしての死。古典的な精神科医がわれわれに教えたように、こうした動機を病気の性質として片づけてしまうのはあまりにも安易である。」
(1968)



本から

『バザーリアは、・・・米国の脱施設化と地域精神医療の現状に関心をもっていた。1960年の時点で53万6000人だった入院患者は、1970年には41万3000人にまで減少していたが、同時にすでにこの「早すぎる」脱施設化に対する批判が起こっていた。脱施設化のスピードに比して、地域精神医療ネットワークの充実が遅れたため、拘置所や刑務所に収容された、あるいはホームレスとなった精神病者の数が増加していたのである。
また、脱施設化によって入院治療から外来治療にシフトするという当初の目的に反して、とりわけ高齢の慢性患者の多くは州立精神病院からナーシングホームに移動しただけであった。
さらに、地域精神保健センターは、扱いやすい患者だけを受け入れ、扱いにくい患者は相変わらず州立精神病院に送っていたため、地域精神医療へのシフトというよりも、病院とセンターの分業のようなかたちになり、退院しては再入院を繰り返す、いわゆる回転ドア現象が多く見られるようになっていた。
・・・・・・
 ヴェトナム戦争まっただなかの米国での地域精神医療サービスの現状をつぶさに見て、バザーリアはそのあり様を徹底的に批判している。』

バザーリア
「ここでは精神病院の現実の否定はただその外観にすぎない。
役割の水平化、暴力の排除、関係性における民主主義的な価値(地域精神医学の新たなドグマである)の肯定、こういったものは、弁証法的であらねばならない現実の顔ではない。
(中略)
治療共同体のゲームは、スタッフのため、彼らが生きていくため、彼らの心理的問題のためだけに役立てられている。この場合、精神病院の施設でさえ、それが存在し働くことで、見かけはより開放的で差別的でない新たな精神医療の単位(地域精神保健センターのこと)の誕生を認めている。
精神病院の堅固さによって背後を守られていれば、新たな精神医学の制度は、己の課題を本質的には遂行することなく、己の行動範囲を見かけ上広げて、精神病の社会的側面に専念することが許されるだろう。」
(1969)



「このような光のもとで、この新たな制度が呼吸している偽りの全能感の意味を理解することができる。
精神科医ソーシャルワーカー、ソーシャルオーガナイザーたちは、精神医学のこの新たな方向が、彼らにとって巨大な権力の源になりうることに気づいている。なぜなら、このようなコントロールのネットワークを通じて、早晩彼らが社会的なゲームの主導権を掌握するだろうからである。
したがってこの新たな運動は、最小限の革新的な意味合いもなければ、ここ米国で好んで用いられたような「革命的」な意味合いもない。技術者たちは、技術的管理という欺瞞のもとに自らが社会管理の道具として行為することに同意し、一般的な政治システムのゲームを単純に受け入れているだけである。」
(1969)







(つづく)

・・・