大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-(11)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房





「 大衆がひたすら現実を逃れ虚構の世界を憑かれたように求めるのは、アナーキックな偶然が壊滅的な破局の形で支配するようになったこの世界にいたたまれなくなった彼らの故郷喪失の故である。
しかしそれと同時に、隙間のない絶対的な首尾一貫性を求めるこの憧れの中には、本質的に人間のものである悟性の能力ーそれがある故に人間が単なる出来事より立ちまさっている能力、つまり出来事を混沌とした偶然的な条件から救い出して、人間の理解や制御を可能にする相対的に統一ある道筋をつけることのできる能力ーが現れてもいる。常識の現実感覚に対する、また常識にとっては世の常として信じられそうに思えることに対する大衆の反逆は、アトム化の結果であって、大衆はアトム化によって社会の中に居場所を失ったばかりか、常識がそれにふさわしく機能し得る枠組をなしていた共同体的な人間関係の全領域を失ってしまったからである。
精神的にも社会的にも完全に故郷を喪失した状況にあっては、恣意的な出来事と計画的な出来事、偶然的な出来事と必然的な出来事ー世の流れとはこういうものから成り立っているのだがーの間の相互依存関係に対する均衡のとれた洞察など、もはや何の意味もなさない。全体主義プロパガンダは、常識が意味を失ったところでだけは、いかに常識を面罵しようと咎(とが)を受けずに済む。
しかし人間というものは、アナーキックな偶然と恣意に為す術もなく身を委ねて没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直し狂気じみた首尾一貫性に身を捧げるかという前代未聞の選択の前に立たされたときには、必ず後者の首尾一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろうーだがそれは人間が愚かだからとか悪人だからとかいうためではなく、全般的崩壊の混沌の中にあっては虚構の世界へのこの逃避は、ともかくも彼らに最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれると思えるからである。




「 ナツィのプロパガンダは首尾一貫性を求める大衆の憧れを特によく利用し尽くしたが、一方ボルシェヴィキーのプロパガンダ方法は、このような首尾一貫性が孤立した大衆的人間に揮う宿命的な影響力を、あたかも実験室の中でやったかのような形でわれわれに示してくれた。
ロシアの秘密警察は、被告が犯しはせず犯そうにも犯せる筈のない犯罪を、世間にばかりか被告にまで信じさせることにあれほど熱心だったが、その際彼らは、告発から現実の諸要素の一切を消し去る必要のあることを心得ていた。その結果、現実から完全に切り離された被告にとっては、でっち上げの筋書きそれ自体のもつ内的論理、その首尾一貫性以外にはもはや何ものも現実とは思えなくなってしまう。
理想と現実の境界線が心理的に確定できなくなるこのような状況にあっては、告発の論理に屈しないためには性格的な強靭さだけでは充分ではない。はるかに重要なのは、自分と繋がりのある他の人間ー血縁者、友人、隣人ーの存在に対する信頼、その人たちは決してこの作り話を信じないだろうという信頼であって、これがあってこそ、抽象的につねに可能性として存在するこのような犯罪を認めてしまいたくなる誘惑に抵抗できるのである。
初めは人為的につくられるが次第に自発的に機能するようになるこのような精神錯乱を極端にまで押し進めることは、もちろん全体的支配の行われる世界においてしかできはしない。
しかしそこでは、これもまた全体主義政府のプロパガンダの道具立ての一部分なのである。なぜなら、被告を罰するのに別に自白などなくても構わないからだ。自白もまたボルシェヴィキーのプロパガンダ装置の一部分であって、その点では、ヒットラー政権が自分の犯罪行為にあとから法的基礎を与えたあの奇妙にペダンティックな立法がナツィのプロパガンダの本質的部分をなしていたのと同じである。
双方の場合ともその本来の狙いは、あらゆることに内的一貫性と統一性を与えることだったのである。」







(つづく)

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