大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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バザーリア語録(9)

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イタリアの精神保健改革の中心人物、
フランコ・バザーリアの言葉

『プシコ・ナウティカ イタリア精神医療の人類学』
 (松嶋健 著 世界思想社 2014年7月発行)から

<参考>
映画「むかしMattoの町があった」
http://180matto.jp/




精神疾患が存在しないなんて、私は言ったことはない。精神疾患という概念を私は批判するが、「狂気」を否定はしない。狂気は人間的な状況だからである。
問題は、この狂気にどのようにして向き合うかということである。この人間的な現象を前にして、われわれ精神科医はどんな態度をとり、そしてこの狂気の必要性にどう応えることができるだろうか。」




「狂気は、ある状況についての表現、ある気違いじみた状況についての表現であるかもしれない。
(中略)
しかし、狂気が社会的な産物であるとだけ考えるなら、まだ実証主義的な論理(著者注:ある現象に対して、その原因を或る一つの次元にだけ求めようとする論理)のなかにとどまっていることになる。狂気が生物学的あるいは有機体的な産物であると言い、心理学的あるいは社会的な産物であると言うのは、その時々の流行にしたがうことである。
私の考えでは、狂気もいかなる病気も、われわれ身体の矛盾の表現であって、私が身体と言うとき、それは有機体であり同時に社会的であるような身体である。病気というのは、社会的文脈のなかで生じる矛盾なのであって、ただ社会的な産物であるだけのものではない。そうではなく、生物学的、社会的、心理学的などわれわれを構成しているあらゆるレベルのあいだの相互作用なのである。」




「(生がある特定のタイプの生産のためにあるような社会において認められた唯一の価値、すなわち「効率」に等しいものとして)健康が絶対的な価値を引き受けた瞬間から、病気は、正常な生活に干渉してくるアクシデントの役割を担わされることになる。
(中略)
こうして病者は、人生に関係のない何かとして自分の病気を生きる羽目になる。そして病気に立ち向かうには、自分は全き病者となって、「科学」に身を委ねなければならなくなるのである。
(中略)

逆説的にも、医学のイデオロギーは、病者を治そうとするまさにその瞬間に、病気との関係を詐取することによって、病者を打ち倒す。こうして、病気は受動性と依存として生きられなければならなくなるのだ。」
(1975)




「病院として規定されているこの施設(*精神病院)に入ってくる者は、病者の役割ではなく、被収容者の役割を担う。
だが、罪を償うために、そこまで償えばよいのか、どれだけのあいだ続くのかもは彼は知らない。
そこには白衣を着た医師も看護師もいる、治療する病院であることを示す病室もある。だが、実際には監護の施設であり、そこでは医学のイデオロギーが、暴力を合法化するアリバイとして働いていて、どんな機関もチェックを任されていない。
(中略)
というのも、精神科医に与えられた委任は全面的なものだからである。彼は技術者として、社会のあるグループが施設における自らの代理人に委任したところの、科学と、道徳と、いわゆる文明を具体的に体現しているのである。」
(1971)





(つづく)


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