大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-(14)

・・・・・



全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




「 全体主義政権が軍ではなく警察を最も信頼できる支柱と見てこれを暴力の本来の根拠地に仕立てるのは、陰謀的な秘密結社と、それと戦うべく組織された秘密警察との間の本質的な類似性に記起因している。
全体主義政権が自分たちに敵対する世界的な陰謀のフィクションと世界支配をめざす自分たちの野心とにどれほど真剣に取組むものかを何よりも的確に証明しているのは、これらの政権のもとでは軍ではなく警察が最大の権力と最高の威信を享受しているという事実である。」




「 党員は実際問題に関する党外向けの公式発表を一切信じないが、それだけに彼らは、過去から未来にわたるすべての歴史のあの包括的説明とイデオロギー的ステロ版を固く信じている。
 全体主義運動はこのような歴史の説明を十九世紀から受け継ぎ、組織を手段としてそれを現実に変えてしまっていた。
 もともと世の中のほとんどの人が抽象的に漠然としながらも信じていたイデオロギー的要素は今や現実の嘘となり、似非非科学的な人種理論はユダヤ人の世界支配という嘘に、普遍的な階級理論はウオール街の世界支配という嘘になった。
 運動の行動計画にとって重要なことは、運動の敵ーユダヤ人、資本家ーの必然的な滅亡が部分的にはすでにこれらのイデオロギーの中に示されているため、運動の行手を阻んでいるのは死滅しかかった者、資本主義諸国の死滅しつつある階級、あるいは腐敗した民主主義国だけだと思い込めるという点である。」




「 ナツィと同じように、ソ連の政策のみならずコミンテルンの政策もまた、1930年以降はマルクシズムのイデオロギーをきわめて勝手気儘に優越的な態度で操ってきたが、そういうことが可能になったのは古い共産党全体主義運動に変質してからのことである。
「階級の敵」との連携は人民戦線政策の後ではごく当り前のこととなり、資本主義諸国、帝国主義諸国、あるいはファシスト諸国との同盟が幹部の信頼性を揺るがせたり、歴史的唯物論の法則に対する信仰を脅かしたりすることは一度として起こらなかった。
 階級闘争が一つの社会的現実、そして一つの政治革命的遺志から、一つの「階級」と他のすべてという分け方の全体主義的な二分法を実現する組織上の道具へと変えられてしまった後には、ボルシェヴィキ―の政策は、ロシア国内のエリートたるGPU(*ソ連邦レーニンスターリン政権下で、反政府的な運動・思想を弾圧した秘密警察)諸部隊と国外のコミンテルン組織を通じて非全体主義的な世界全体に対するこの妥協のない敵意を操作しさえすれば、他方では完全に「偏見のない」政策をとることができるようになったのである。」



「(ソ連の)全体的支配にとって決定的に重要だったのは、マルクスエンゲルスがなおざりにした革命戦略の理論ーこれはトロッキーにとってもレーニンにとっても関心事だったーを作り上げようとするこの試みではなく、いかにしてスターリントロッキーの理論を利用して永久革命をロシアにおける支配様式として確立したかということである。
 スターリンは、最初は党機構の官僚主義化と腐敗に対する民主的なコントロール・システムとして考えられていた党内浄化をあの巨大な<粛清の波>に変えることによってこれをおこなった。 この波は1934年以来一定の期間をおいて全国に襲いかかり、まさに革命のような威力を発揮したが、違うところはただ、ロシア革命をも含めて本当の革命はスターリン体制の人工的永久革命ほど厖(ぼう)大な人命の犠牲を嘗て要求したことがないということだけである。
 スターリンはまさにこの永久革命の理論の故にトロッキーを攻撃し、この理論に彼自身の「一国社会主義建設」の理論を対置することによってこうした事態の口火を切ったが、このことは一つには自分の意図をカムフラージュする巧妙な計略だった。
 だがまたそこには、自分自身のもくろんでいることを、<犯罪>として現実の、もしくは架空の敵に転嫁するという周知のスターリンの戦略も働いていた。この戦術が不人気な施策をおこなう場合にとりわけ功を奏したことは当然である。
 ヒットラーもまた革命の次の段階について公然と論ずる人々を追放するーその理由はほかでもなく、「総統と彼の古い中間たちは今はじめて真の闘いがはじまったことを知っていた」からなのであるーことによって彼の「永久革命」を開始した。永久革命ボルシェヴィキー的概念にここで対応するのは人種的「選別」であって、これが「中止されることは決してあり得ず」、かつまたこの選別は、<抹消>の基準が絶えず厳しくなって行くことを要求する。
 スターリンの場合もヒットラーの場合も同じことで、1934年のロシアと1934年のドイツでは事情そのものが非常に似通っていた。革命は終結に至り、住民は何よりも現在の事態の安定化を熱烈に念願していた。双方の場合とも全体主義的権力者はこの状況を利用して、民衆の願望を容れるように見せかけて自陣営内の影主義者の息の根を止めながら、実はこの暴力行為そのものによって革命運動を推し進め、永続的な不安定の状態を生み出そうとしたのである。」







(つづく)

・・・・