大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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中井久夫語録(戦争)8

中井久夫(1934年生)

戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から





「 しかし、祝祭(*開戦直後)の持続は一カ月、せいぜい三カ月である。それが過ぎると戦争ははじめてその恐ろしい顔を現わしてくる。たいていの戦争はこの観点からすれば勝敗を論じる前にまず失敗である。その前に戦争を追えるというのがクラウゼヴィッツの理想であったろう。
 しかし、もう遅い。平和は、なくなって初めてそのありがたみがわかる。短い祝祭期間が失望のうちに終わると、戦争は無際限に人命と労力と物資と財産を吸い込むブラックホールとなる。その持続期間と終結は次第に誰にもわからなくなり、ただ耐えて終わるのを待つのみになる。太平洋戦争の間ほど、平和な時代のささやかな幸せが語られたことはなかった。虎屋の羊羹が、家族の団欒が、通学路のタバコ店のメッチェン(少女)が、どれほど熱烈な話題となったことか、平和物語とは、実はこういうものである。過ぎ去って初めて珠玉のごときものになるのは老いの繰り言と同じである。平和とは日常茶飯事が続くことである。
 戦争が始まるぎりぎりの直前まで、すべての人間は「戦争」の外にあり、外から戦争を眺めている。この時、戦争は人ごとであり、床屋政談の種である。開戦とともに戦争はすべての人の地平線を覆う。その向こうは全く見えない。そして、地平線の内側では安全の保障は原理的に撤去されている。あるものは「執行猶予」だけである。人々は、とにかく戦争が終わるまでこの猶予が続き、自分に近しい人の生命と生活が無事なままに終わってほしいと念じる。それが最終的に裏切られるのは、爆撃・砲撃を経験し、さらに地上の交戦を経験したときである。それが戦争のほんとうの顔であるが、究極の経験者は死者しかいない。
 米国の両次大戦激戦地における戦争神経症発症状態はカーディナーとスピーゲルの著作に克明に記述してあるが、同程度の激戦を経験して戦争神経症になった日本兵はほとんど帰還していないであろう。米軍のようには孤立した兵士を救出する努力をしないからである。第一次大戦初期の英軍も太平洋戦争後半の日本軍も、その真の戦争体験は永久に不明である。人類の共通体験に繰り込まれないということだ。
 1944年末、すでに米軍の爆撃音は日本諸都市の日常の一部であったが、1945年3月、ドイツの諸都市で経験を積んだカーチス・ルメーの着任とともに、欧州並みの無差別都市爆撃が始まった。猶予期間は終わった。爆撃が重なるとともに次第に想像力が委縮し、麻痺し、爆撃によって炎上する都市を目撃してもそこに何が起こっているかを想像しなくなる。さらに無感動的になり、自他の生死にも鈍感になる。広島・長崎に対する「新型爆弾」攻撃を聞いても、艦載機の攻撃に備えた黒シャツを再び爆弾の「光線」を跳ね返す白シャツに替えるという些事のほうが大問題になってくる。震災の時の同心円的関心拡大とは逆の同心円的な関心縮小を私は経験した。いや、私は現実感を喪失し離人的になっていたのであろう。この白々とした無意味性の中では低空を飛ぶ巨大なB29は銀色に輝いてただただ美しかった。敗戦の知らせを何の感動もなく聴いた。その後、数カ月の記憶は断片的であって、明らかに解離がある。同級生の語る「教科書への墨塗り」の記憶はどうしても出てこない。」







(つづく)
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