大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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中井久夫語録(戦争)9

中井久夫(1934年生)

戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から




「 戦争中の指導層に愕然とするほど願望思考が行き渡っているいるのを実に多く発見する。しかも、彼らは願望思考に固執する。これは一般原則といってよい。これに比べれば自己と家族の生命の無事を願う民衆や兵士の願望思考は可愛らしいものである。
 ほとんどすべての指導層が戦争は一ヵ月か、たかだか三ヵ月のうちに自国の勝利によって終わると考える傾向がある。第一次大戦においてはそれは顕著であった。列強のすべての指導層が積極的には戦争を望まないまま、「ヨーロッパの自殺」といわれる大焚火の中に自国を投入していった。列強のすべての指導層は、恫喝によって相手が屈すると思った。そのための動員令であり、臨戦体制であり、最後通牒であった。しかし、相手も同じことを思っていた。恫喝に屈することは、実際にはベルギーのような小国もしなかった。
 小国は一般にほんとうに踏みにじられるまで屈服できない。亡国の危険があるからである。永続する妥協をみいだす責任は大国にある。
 このようにして戦争が自動的に始まった。そして、最初の一ヵ月でパリをおとすというドイツ軍の願望思考が成就しなかった後は、五百メートルの距離を争って日に数千、数万、そして会戦となれば一回に数十万の死者が生まれた。
 太平洋戦争ですら、心理的窮地に立っての開戦決定にもかかわらず、シンガポール陥落で有利な講和を結ぶ状況が生まれるはずだと信じていた。そうならなかった後は打つ手がなくなった。太平洋戦争は一言にしていえば、連合国の植民地軍に勝利し、本国軍に敗れたということである。連合国軍のほうは植民地軍の敗北は「織り込み済み」であった。しかし、願望思考の極まるところ、「無敵」神話が生まれる。「勝利病」である。1942年2月1日、米機動部隊はマーシャル群島を襲撃し、戦意の高さを示した。迎えうった護衛なしの五機の九六式陸上攻撃機の隊長機は炎上しつつ部下を基地に誘導して取って返し「エンタープライズ」の飛行甲板を掠めて海中に没した。これは太平洋戦争最初の米空母への体当たりであった。しかし「勝利病」によって、海軍首脳はこれを何の兆候とも認めず、4月18日の東京空襲は不意打ちとされた。
 これが6月4日のミッドウェイにおける「運命の転機」を迎えさせる一因となった。・・・・その後の日本軍の作戦は次第に作戦自体が多くの願望思考から構成されるようになる。精密機械のように複雑な味方の行動がすべて円滑に進行し、敵がこれに対してお誂えむきな状態に留まってくれることを前提とするようになる。マリアナ沖、レイテ沖海戦にはその影が濃い。最高の願望思考は本土決戦である。もし実現すれば、講和条件が有利になるどころか、1945年春のルソン島戦の再現となり、兵と民衆が山野を彷徨って遂に人肉食の極限に至っていたであろう。そして、むろん、日本は分割され、少なくとも北海道はロシア領となっていたであろう。
 平時から、願望思考は至るところにあった。戦艦「大和」が国費をかたむけて建造されたのは、米国にはパナマ運河を通過できない大戦艦は造れないという固定観念にもとづくものであったが、米国にはサヨリのように細長い戦艦ミズーリ級を造って日本の願望思考を破壊した。そして、速力32ノットのミズーリ級は30ノットを越える当時の正規空母に随伴できるが、27ノットの大和級はできなかった。
 それだけでなく、戦前の帝国海軍は、戦艦を中心として輪形陣を組んでしずしずと進んでくる優勢な米主力艦隊を西太平洋に迎え撃ち、途中を潜水艦、駆逐艦、航空機などで「漸減」させ、タイになったところで雌雄を決するという筋書きで猛訓練をはげんでいた。しかし「漸減」してタイになったならば米艦隊はリスクを避けて引き返すであろう。そもそも、主力艦隊が東西の横綱よろしく取っ組み合いをして国の勝敗を決するということが幻想である。日本海海戦を含め、大多数の海戦は、上陸妨害か補給路遮断の試みとそれへの対抗あるいは予防のために起こっている。真珠湾攻撃は東南アジア上陸作戦の安全化のためであった。」







(つづく)
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