大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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中井久夫語録(戦争)10

中井久夫(1934年生)

戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から




「 戦争初期の熱狂が褪(さ)めるのに続いて、願望思考にもとづく戦争の論理が尽き果てる過程がある。

 第一次大戦におけるドイツ軍はベルギーの永世中立を犯してフランスの首都パリに迫ろうとした。時計仕掛けのように精密なしシュリーフェン作戦の計算が狂ったのは、わずか六個師団と数個の要塞に拠るベルギー軍の頑強な抗戦とベルギーの民兵によるレジスタンスであった。最後に政府の退却後のパリ防衛を一手に引き受けたガリエニ将軍の炯(けい)眼があって、結局、ドイツ軍はパリまで四十キロに迫りながら、マルヌの会戦で挫折する結果になる。戦局はここで膠着し、以後の西部戦線は本質的に塹壕戦であって、しばしば幅五百メートルの土地を争って一日数千からの数万の犠牲が支払われ、しかも戦線は固着したまま、毒ガス、戦車、長距離砲、飛行機と兵器だけはどんどん残虐になっていく。
 すでにベルギー侵入の際に、ドイツ軍は抵抗した自治体の市長など指導層とその家族を処刑していった。これがドイツ兵の残虐さを世界に印象づけた。ドイツ人の論理では、下からの自発的抵抗というものは考えられず、必ず上に立って指揮命令する者がいるはずで、それは自治体の長だろうということになった。また、人質をとって、ドイツ兵が一人殺されると、その何人かを駅裏で銃殺した。この手法は第二次大戦のドイツ軍に継承される。
 
 日中戦争における日本軍も、中国軍の意外な抵抗に遭遇した。西安事件以後の中国はもはや恫喝(どうかつ)に屈しなくなっていた。国民政府軍はチェコ製の機銃で武装し、ドイツ国防軍の指導下に強化した防衛線に拠って頑強に抵抗した。米ソなどの国際義勇兵の操縦する戦闘機は日本機をしばしば撃墜した。また、日本軍は「便衣隊」と呼ぶ中国人の抵抗にも大いに悩まされた。当時の新聞は「小癪(しゃく)な」中国軍と表現したが、実態は苦戦であった。
 第一次大戦のドイツ軍パリ攻撃と日中戦争の日本軍の南京攻略戦(とアメリカ軍のバクダッド攻略)に共通なのは、まず、戦争は首都を陥落させれば早期に勝利のうちに終わるという強烈な思い込みである。だからこそ、日本国内では南京陥落を聞いて提灯行列に次ぐ提灯行列が行なわれたのである。しかし、実際には、相手の抗戦意志を挫(くじ)かなければ、その首都を占領しても戦勝にならない。

 (中略)

中国は当時でさえ四憶の人口を有する国家であって大量の捕虜を出しても新規の兵士に事欠かず、しかも、抗日に燃える女性兵、少年兵も参加していた。・・・・・」






(つづく)