大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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中井久夫語録(戦争)11

中井久夫(1934年生)

戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から




「 次に、いずれも意外に頑強な抵抗に苛立って、飲まず食わず眠らずで前進したことがある。1941年秋にパリをめざしたドイツ軍兵士はマルヌ会戦直前には溝に落ちれば這い上がれず、将校は馬の首にもたれて眠ってしまう状態であった。ナポレオン軍と同じく現地調達を原則とする日本軍はなおさらであって、三日二夜食べずに前進し、戦時歌謡にもそううたわれた。孫文の中山陵のある紫金山を守った中国軍は特に壮烈な戦闘を演じて、南京入城を遅らせた。
 飲まず食わずのドイツ軍は、花の都パリを占領しさえすれば思いどおりのことをやって報いられるという期待が士気を鼓舞した。ドイツ軍はパリ入城を果たせず、周辺の小自治体で憂さを晴らしたのである。日本軍にも「南京までの我慢」という同じ期待はあったであろう。それが紫金山の抵抗で遅らされたからには苛立ちは高まったであろう。
 南京陥落直後の詳細についてはいろいろな記録があって、研究書も多い。
・・・・・(中略)

しかし、1938年1月4日付で大本営陸軍部幕僚長閑院宮載仁(ことひと)親王より中支那方面軍司令官松井石根あてに「軍紀風紀に於いて忌々しき事態の発生漸く繁を見之を信ぜざれんと欲するも尚疑はざるべからざるものあり」(『南京戦史資料集』)と軍紀風紀を厳にすべき旨の要望が発せられ、中支那方面軍司令官が更迭され、南京城内の蛮行については次期中支那方面軍司令官畑俊六大将の日記には「支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く退廃、略奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる機なれば」(「畑俊六日誌」『続・現代史資料4 陸軍』)とあって、就任時に昭和天皇に「軍紀の確立」を二つの抱負の一つとしている。おそらく昭和天皇も含めて軍の首脳部は憂慮していたのであろう。そのような事態は民心離反を招き戦争遂行上きわめて望ましくないことである。しかし、少年の私も少し後「今の日本軍は皇軍ではありませんよ。日露戦争と大違いです。女子を殺して井戸に投げ込んでいる」「揚子江に中国兵の死体がいっぱい流れてくる」と大人同士が語るのを直接聴いている。
 
 これ複数の要因から成っていると思われる。第一次大戦のドイツ軍の行動に照らして、主な要因と思われるものを挙げてみよう。
 第一は欲求不満の要因である。南京は中華民国の新都であってパリの華やかさはなかった。それでも、激烈な戦闘後の日本兵には大都市にみえたであろう。第一次大戦のドイツ軍は正規兵に予備兵すなわち市民兵を混ぜていた。日本軍は南京陥落後、精鋭は逃走する中国軍を追って前進し、南京の守備には一般にそうするように予備・後備の市民兵を当てた。市民兵は、不本意に市民生活から呼び出されて生死の境を彷徨った兵士である。一般社会での生活を知っているだけに、禁欲も身にこたえ、召集解除への期待も大きかったであろう。首都占領、戦勝、凱旋、復員という筋書きを国の指導部が当然視し、国民が提灯行列で熱狂を表現していたとすれば、兵士に同じ期待がないほうが不思議であろう。南京占領以前すでに国民政府は遷都を公表していた。期待が裏切られたことが身に沁みてわかってくる。これは実は古典的要因であって、西欧中世で戦争が王と傭兵の戦いであった時代でも、城市攻囲の際には兵士にたとえば三日の略奪を許すことを布告して戦意を鼓舞するのが常であった。・・・・」







(つづく)