大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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中井久夫語録(戦争)了

中井久夫(1934年生)

戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から




「 一般に、敗戦国では戦後を否認する者と戦後を受容する者とにわかれる。第一次大戦後のドイツでは否認する者のほうが優勢であった。ドイツ本土がナポレオン戦争以後一世紀の間、戦場にならなかったためもあって、「背後の一突き」すなわち国内の敗北主義者の裏切りによる敗北だという宣伝がしきりになされた。第二次大戦では、イギリス、スウェーデン、スペイン、ポルトガルを除いてヨーロッパ諸国のことごとくが陸戦の戦場となった。国が陸戦場になるかならないかが戦争体験を左右する程度は大きいと思われる。日本の大部分は陸戦場にならなかった。死者の戦争体験は戦闘であろうと空襲であろうと平等であるが、生き残った者の体験に沖縄とその他の地方との落差があるのは、そのためもあるであろう。

 日本は、663年の唐に対する白村江の敗戦以来、対外戦争の決定的敗北がなく、本土を占領されたこともなかったという稀有な地域である。沖縄を除けば1945年から52年までの米軍の占領が当時は意外に温和なものと受け取られたのは事実である。それは、軍が背水の陣を構築するために国民に予め与えた敗戦のイメージのグロテスクさによるところもあり、漏れ聞いていた日本軍外地占領の過酷さと希望のなさとの対比によるところも大きかった。また、島国であったために、深刻な国境問題を直面したこともなかった。
 実際、当時の日本は敗戦から多くのものを搾り出した。占領軍によらなければ農地改革は完遂できなかったであろう。小作争議は戦前以上に大規模となったであろう。女性参政権、男女同権なども同様であって、日本の支配層は、占領軍の力によって、この種の改革に対する反対勢力を抑え、全体として戦後50年の国内の安定を紡ぎだしたということができる。
 戦争放棄は「懲罰」であると同時に一種の「みそぎ」と観念されて、「新生日本」が旧日本とは断然違うということの証しとしてしばしば活用された。専守防衛の思想を持つ自衛隊は戦前の軍との間に一線を画した。ベトナム戦争に韓国軍と並んで出兵を要請されなかったのも、現憲法の活用によるところが大きかろう。


・・・・・(中略)


 そもそも私がこのような一文を草することは途方もない逸脱だとわれながら思う。しかし、一度は書かずにはおれなかったとも思う。それは山本七平氏や半藤一利氏を動かしたものと同じではないにしても遠くはないであろう。戦時中の小学生が「戦中派」といわれる時代であり、その「戦中派」も陛下と同じく満71歳(*執筆当時)を過ぎているのである。しかし、わたしの主眼は「理解」にある。私は戦争という人類史以来の人災の一端でも何とか理解しようと努めたつもりである。・・・・・

 戦争について書こうとする作業は、私の一種の喪の作業であることに最近気づいた。・・・・・・」





(語録、おわり)