大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

手紙

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映画「手紙」を観る




プログラムのはじめに、
「罪を犯すとはどういうことか、刑罰とは何なのか、
真の更正とは- そんなことを考えながら書きました」(原作・東野圭吾
「人間ってすてたもんじゃねえ、ってことを伝えたかったんです」(監督・生野慈朗)
とあった。
プログラムの解説の見出しには、
「人は、ひとりで生きていけない、
優しさを失った現代社会の、希望を失ったすべての人々に贈る、魂の人間賛歌。」と。

しかし、この映画の主題はむしろ、主題歌「コモレビ」のフレーズ、
「見たくもない 現実も いつかは大切な絆に変るから   」
「知りたくない 感情も いつかは大切な強さに変るから   」に
あるような気がする。
同じことをいっているのか知れない。
が、上のキャッチフレーズ(宣伝コピー)のようなおおげさな言葉に、
私ははずかしくなった。

そして「差別」という言葉が、映画(原作?)の中で、
いとも簡単に使われていることに違和感を覚えた。
差別とは何か、なぜ起きるのかの整理もないまま、
言葉が先行していては、単にイメージだけでわかった気になるだけだ。

実は、人は事件にだけではない、
思いがけない事故や、突然の病気、障害、自死、血のつながり・・と周辺にも、
「見たくもない現実」を見、「知りたくもない感情」を覚えるのである。
その現実に対して不安をいだき、心が落ち着かなくなる。
いつしか、「病」のように自分や家族に伝染し、
影響を及ぼすのではないかと不吉に思い、
映画での平野会長がいうように「自己防衛」をする。
それらが実際には、多く身近にあるにもかかわらず、
異質のことがらや異質の人間を認めず、排除したり、遠ざけようとし、
記憶から抹殺しようとする。
異質なものとの共存を認めず、消し去って安心するのである。
被害者とか加害者の問題ではないのではないか。

「いじめ」の問題も、「ムカツク」、「キモイ」という感情により、
自分とちがう者の存在を認めようとしない心理と関係してくるだろう。
この映画「手紙」を観た人が、
もし、蓋をしたいマイナスのことがらの当事者やその家族になったとき、
どう受けとめ、どう行動するだろうか。
映画の問いかけは、本当は重いといわなければならない。

人は「やさしさ」やキレイゴトだけでは生きられない。
現実と向き合い、現実をとらえなおすことによって、
「絆」(これも便利でカッコイイ言葉だ)というか、つながりを確かめる。
自分の中にも、マイナスにみえる現実を認めようとしない感情があることを
まず発見することから、はじめなければならない。
その人への複雑な思いがあり、つながっているからこそ、生きられる場合もある。
ここ数年、身近にいろいろなことあった私の経験からも、そう思う。

映画が、うまく観客の涙のツボをおさえていたとしても、
テーマの掘り下げは、なにか中途半端に終わっているように思う。
事件から、人間の「死」もテーマに含めたら、もっと深くなったのでは。
(ないものねだりか)



<追加>
主題歌を歌った高橋瞳の歌唱は、さわやかでいい。
山田孝之玉山鉄二、いずれもいい演技をしていたと思う。
今回、助演ではあったが、吹石一恵も印象に残った。


刑務所への慰問で、
弟が漫才によって、兄に必死にメッセージを送ろうとし、
兄がそれを涙ながらに受けとっていたラストシーンは、
涙なくして観ることは、できなかった。