大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

タルコフスキー語録(2)

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タルコフスキー日記供廖淵ネマ旬報社)から



神なしで人はどうして生きてゆけよう。
自身が神となるなら別だ、だがそんなことは決してあり得ない・・・


人間の自由は一種の階梯を持っている- 一方の端は悪に接し、
一方は善に接している。
だが、この階梯を下り、転落しながら戦った者がいたとはかつて聞かない。
これを昇ることこそがいつでも戦いだ。


アメリカ全体が一種のディズニーランド-セットなのだ。
家々はみな、木の切れはし、カンナで削った薄板とベニヤ板で成り立っている。
何もかもが一時的、刹那的な感じだ。


奇蹟とは、我々の四次元界に偶然姿を見せるもののこと。
すなわち奇蹟とは、もうひとつの超越した世界の存在を証しするもの。
我々の四次元界(意識)の外部にあるものことごとくが奇蹟だ。
だがしかし!この、もうひとつの世界に触れることは可能なのか?
とは言え、奇蹟を感知する際、我々の地上的知覚にあって、
それはもうひとつの世界の不可思議なあらわれとして、
ほぼ歪められたかたちでとらえられる。
すなわち、奇蹟を我々は奇蹟の像として見るのであり、
ありのままに見るのでは決してない。
所詮我々の知覚するものは-物質界においては-
世にありとあらゆるものまで含めて、全て無限なるものの反映にすぎない。


ひとは生き、晩(おそ)かれ早かれ死ぬものと誰もが知っている。
だがそれがいつかはわからない。
それゆえこの瞬間を不特定の未来に押しやることで、
生きてゆく支えとするのだ・・・。
だが、私は既にそのときを知った。
私が行き続けるための支えは何もない。
これはひどく辛いことだ.


思うに誰よりも声高に自由を求めて叫び立てる者に限って、
自由によく耐え得まい。
自由とは責任を引き受けることだ。
だからこそ多くの者は自由を恐れる。


私とあの子は精神の力で結びついている。
アンドリューシャ(息子)こそ私の精神的な後継者、
私の仕事を受け継いでくれる者だという気がする。
そう思うと、私も運命に立ち向かう勇気が涌いてくる、最期がどんなかたちで来ようとも。


あれはみな本当にあったことなのだろうか?思い返すと嘘のようだ。
あの田舎の、ミャスノエのわが家を訪れるたび、私はどんなに幸福だったことか!
あのままあそこでずっと暮らしたいと思っていたのに、
それももう手の届かぬ、遥か彼方のことになってしまった。
過去は振り返るまい。
悪夢の連続だった過ぎし日々のうち、
田舎で暮らしたあのひとときだけがすっぱりと他から切り離されて、
唯一明るい記憶となって鮮やかに浮き上がって見える。


何百年も経た巨大な樫の木が一角にある、どことなく懐かしい修道院の中庭を夢に見た。
不意にその樫の根の、とある箇所の真下から炎がゆらめき出たのに気づく。
地面の下、縦横に走る地下道に灯された無数の蝋燭が火元と知れる。
あわてふためいた尼僧が二人駆け抜けてゆく。
そうこうするうち炎は地表に穴を穿って吹き上げ、
消し止めるにはもう遅すぎるとわかる-
樫の根はことごとく、真赤に熾る石炭と変わった。
この光景に哀しみがつきあげる。
樫の木のなくなったこの場所を思い浮かべる-
どこかみすぼらしい、無意味な、全く無用な場所と化すだろうと思える。