「ルオマの初恋」によせて
「ルオマの初恋」によせて
映画「ルオマの初恋」を観て、
この人の著作を思い出す。
岩田慶治さんだ。
雲南ではないが、主にタイ、ラオスなど東南アジアを中心に、
少数民族、山地民族の地に行き、
地元の人と生活し、その中で歩きながら、いろいろ考えた人である。
この機会に、簡単な岩田慶治「語録」をまとめてみた。
●
「からだのなかにたましいがひそんでいる。むかしの人はそうかんがえた。・・・
人間にたいするわれわれの見方とむかしの人の見方はちがっていた。
われわれは人間を、まずは一人ひとり切りはなされた個としてみる。
かたちと機能を持った個体としてみる。
しかし、むかしの人は人間を、それをとりまく環境、
土地、山、川、森、村、空、
そして生き物たちといっしょに、
たがいに切りはなすことのできないものとして見た。自然の一部と見た。
たとえ話でかんがえてみよう。
特別に大きい画用紙を用意して、それを自然と見たてよう。
現代人はこの1まいの紙から、
山、川、木、石、動物、人間、家などのかたちをハサミで切りぬいて、
ちょうどジグソーパズルをバラバラに解体してしまったようにとりあつかっている。
山も木も、そして人間も一つのピース(部分)なのである。
そのピースをさらに切りきざんで研究しているわけである。
むかしの人だって個としての人間をかんがえた。
しかし、そのときはいつも自然の他の部分をわすれなかった。
人間とそれをとりまく環境、人間と宇宙のあいだを循環する生命のはたらき、
その全体を見ていた。
生命のはたらきのもと、それをたましいとよべば、たましいはもともと、
からだの内部と外部をつなぎ、そのあいだを自由に往来していたのである。」
(「からだ・こころ・たましい」)
●
「稲にたましいがやどっていたのは、
稲のなかに無限という時間がひそんでいたからである。
稲が神だったというのは、
祭りのときに稲と人間が、祖先の神たちの住む永遠の世界にふれ、
その世界を共感できたからである。
ひろびろとした稲田にでて、風とともに波うつ稲穂、
その波のゆくえに目をあそばせてみよう。無限を感じないだろうか。・・・・
人間はいつか死ぬ。
死んだらすべておわりで、なにもかもこの世から消えうせてしまうのかというと、
そうではなかった。
むかしの人は、からだとは別に霊魂(たましい)をかんがえ、
そのたましいが生きのびて、あの世、あるいは他界にゆき、
そこでさらに生きつづけるものとかんがえていた。
この世の外にもう一つの世界、目に見えない世界、
つまりあの世をかんがえ、
たましいはこの世とあの世のあいだを往復するとかんがえたのである。
だから、あの世にいったたましいはそれでおわりではなくて、
機会をえてふたたびこの世にもどり、生まれかわるものだとかんがえた。
たいていはその人の孫として再生するとかんがえていたところが多かった。・・・・」
(「からだ・こころ・たましい」)
●
「かつては人間と動物とのあいだに通じあうこころがあり、
共存する世界がひらかれていた。
今日では自然を守れ、生態系を破壊するなという声はあるが、
それらを目ざすものはあくまでも人間中心の秩序なのである。
すべての生きものを家畜化しようとする思想なのである。
そこには宗教心の発露にもとづく、想像力の自由なひろがりは。
まったく見られない。・・・」
(「カミと神」)
●
「先祖のカミは、常に村人の魂を生き生きとよみがえらせ、
生命力を更新してくれる。
魂をもった人としての村人の存在と先祖のカミとのあいだには生死の境界があるが、
魂はこの境界をこえて交流することができる。
・・・・・
人間と文化を支えるものとしての風景が大切なものとなる。
・・・目の前の風景が、また、その背後にあって目に見えない風景が、
その気配、その風、その香りが、どこからかただよってきて人々のもとへ届く。
山が、川が、森が、草原が、民族文化という部屋に同居することになり、
自然の言葉を伝えてくれる。人間はその言葉によって文化の軌道修正をする。」
(「日本文化のふるさと」)
●
「「ふるさと」、つまり故郷とはどういう場所であろうか。
私はごく簡単にこう考えている。そこは「呼べば応えるところ」だ、と。
「呼べば応える」、たしかに、
「ふるさと」では木の葉のざわめきも皮のせせらぎもなにごとかを語っている。
そこでは、村人たちが一つの共同体を構成し、
互いに依りあい助けあってせいかつしているだけではない。
共同体のメンバーとしての村人とその周囲をとりかこむ自然とが呼応し、
融即しながら、きわめて濃密な風土的関連を保っているのである。
いや、それだけではない。
人と超自然とが互にその分を守りながら交感し、交流しあっている。
「ふるさと」は自然と社会と精霊の世界とがそれぞれに対応し、
呼応しあう生きた地域の単位なのである。」
(「カミの誕生」)
●
「・・・
、草むらのなかでトカゲの目が光った。
大空を飛びわたる鳥の声が鋭く耳にひびいた。
そこで驚き、神秘を感じた。
だからといってカミに出会ったとはいえない。
昔のひとがそれをカミとして恐れた。
異民族の言葉のなかに神と翻訳するしかないような単語があったとしても、
それをただちに神として扱うわけにはいかない。
自分がそこにいないのにカミが出現することはない。
その場にいないで遠方からカミを望遠鏡で見つけるわけにはいかない。
風景のなかにカミが宿っているといっても、
自分が画中の人になってはじめてそれを認めることができるのだ。
キラリと光る草葉の露を見つけて、ハッとして、
有限なわが身ならぬ無限の別世界を実感する。
そういう時にカミが光るのかもしれない。
ピーッと鳴きわたる鳥の声を聞く。
その叫びに打たれるだけじゃダメだ。
その叫びを通じて、
その背後にひろがっている無限の空が近づいて来なければダメだ。・・・」
(「アニミズム時代」)
●
「神はみえなくても-
神をふくむ風景、たましいのやどる風景は
くっきりと見えているはずである。
だって、きみはいつだってそういう風景にとりかこまれているのだから――。
その風景のなかで自分を生かす努力をしよう。・・・
今日は今日の出発があり、明日は明日の出発がある。
しかし、たいせつなのはいまだ。
今朝は今朝のいのちを一瞬、キラリと光らせて出発する。
「朝顔さん、こんにちは」といいながら――。」
(「からだ・こころ・たましい」)
・・
映画「ルオマの初恋」を観て、
この人の著作を思い出す。
岩田慶治さんだ。
雲南ではないが、主にタイ、ラオスなど東南アジアを中心に、
少数民族、山地民族の地に行き、
地元の人と生活し、その中で歩きながら、いろいろ考えた人である。
この機会に、簡単な岩田慶治「語録」をまとめてみた。
●
「からだのなかにたましいがひそんでいる。むかしの人はそうかんがえた。・・・
人間にたいするわれわれの見方とむかしの人の見方はちがっていた。
われわれは人間を、まずは一人ひとり切りはなされた個としてみる。
かたちと機能を持った個体としてみる。
しかし、むかしの人は人間を、それをとりまく環境、
土地、山、川、森、村、空、
そして生き物たちといっしょに、
たがいに切りはなすことのできないものとして見た。自然の一部と見た。
たとえ話でかんがえてみよう。
特別に大きい画用紙を用意して、それを自然と見たてよう。
現代人はこの1まいの紙から、
山、川、木、石、動物、人間、家などのかたちをハサミで切りぬいて、
ちょうどジグソーパズルをバラバラに解体してしまったようにとりあつかっている。
山も木も、そして人間も一つのピース(部分)なのである。
そのピースをさらに切りきざんで研究しているわけである。
むかしの人だって個としての人間をかんがえた。
しかし、そのときはいつも自然の他の部分をわすれなかった。
人間とそれをとりまく環境、人間と宇宙のあいだを循環する生命のはたらき、
その全体を見ていた。
生命のはたらきのもと、それをたましいとよべば、たましいはもともと、
からだの内部と外部をつなぎ、そのあいだを自由に往来していたのである。」
(「からだ・こころ・たましい」)
●
「稲にたましいがやどっていたのは、
稲のなかに無限という時間がひそんでいたからである。
稲が神だったというのは、
祭りのときに稲と人間が、祖先の神たちの住む永遠の世界にふれ、
その世界を共感できたからである。
ひろびろとした稲田にでて、風とともに波うつ稲穂、
その波のゆくえに目をあそばせてみよう。無限を感じないだろうか。・・・・
人間はいつか死ぬ。
死んだらすべておわりで、なにもかもこの世から消えうせてしまうのかというと、
そうではなかった。
むかしの人は、からだとは別に霊魂(たましい)をかんがえ、
そのたましいが生きのびて、あの世、あるいは他界にゆき、
そこでさらに生きつづけるものとかんがえていた。
この世の外にもう一つの世界、目に見えない世界、
つまりあの世をかんがえ、
たましいはこの世とあの世のあいだを往復するとかんがえたのである。
だから、あの世にいったたましいはそれでおわりではなくて、
機会をえてふたたびこの世にもどり、生まれかわるものだとかんがえた。
たいていはその人の孫として再生するとかんがえていたところが多かった。・・・・」
(「からだ・こころ・たましい」)
●
「かつては人間と動物とのあいだに通じあうこころがあり、
共存する世界がひらかれていた。
今日では自然を守れ、生態系を破壊するなという声はあるが、
それらを目ざすものはあくまでも人間中心の秩序なのである。
すべての生きものを家畜化しようとする思想なのである。
そこには宗教心の発露にもとづく、想像力の自由なひろがりは。
まったく見られない。・・・」
(「カミと神」)
●
「先祖のカミは、常に村人の魂を生き生きとよみがえらせ、
生命力を更新してくれる。
魂をもった人としての村人の存在と先祖のカミとのあいだには生死の境界があるが、
魂はこの境界をこえて交流することができる。
・・・・・
人間と文化を支えるものとしての風景が大切なものとなる。
・・・目の前の風景が、また、その背後にあって目に見えない風景が、
その気配、その風、その香りが、どこからかただよってきて人々のもとへ届く。
山が、川が、森が、草原が、民族文化という部屋に同居することになり、
自然の言葉を伝えてくれる。人間はその言葉によって文化の軌道修正をする。」
(「日本文化のふるさと」)
●
「「ふるさと」、つまり故郷とはどういう場所であろうか。
私はごく簡単にこう考えている。そこは「呼べば応えるところ」だ、と。
「呼べば応える」、たしかに、
「ふるさと」では木の葉のざわめきも皮のせせらぎもなにごとかを語っている。
そこでは、村人たちが一つの共同体を構成し、
互いに依りあい助けあってせいかつしているだけではない。
共同体のメンバーとしての村人とその周囲をとりかこむ自然とが呼応し、
融即しながら、きわめて濃密な風土的関連を保っているのである。
いや、それだけではない。
人と超自然とが互にその分を守りながら交感し、交流しあっている。
「ふるさと」は自然と社会と精霊の世界とがそれぞれに対応し、
呼応しあう生きた地域の単位なのである。」
(「カミの誕生」)
●
「・・・
、草むらのなかでトカゲの目が光った。
大空を飛びわたる鳥の声が鋭く耳にひびいた。
そこで驚き、神秘を感じた。
だからといってカミに出会ったとはいえない。
昔のひとがそれをカミとして恐れた。
異民族の言葉のなかに神と翻訳するしかないような単語があったとしても、
それをただちに神として扱うわけにはいかない。
自分がそこにいないのにカミが出現することはない。
その場にいないで遠方からカミを望遠鏡で見つけるわけにはいかない。
風景のなかにカミが宿っているといっても、
自分が画中の人になってはじめてそれを認めることができるのだ。
キラリと光る草葉の露を見つけて、ハッとして、
有限なわが身ならぬ無限の別世界を実感する。
そういう時にカミが光るのかもしれない。
ピーッと鳴きわたる鳥の声を聞く。
その叫びに打たれるだけじゃダメだ。
その叫びを通じて、
その背後にひろがっている無限の空が近づいて来なければダメだ。・・・」
(「アニミズム時代」)
●
「神はみえなくても-
神をふくむ風景、たましいのやどる風景は
くっきりと見えているはずである。
だって、きみはいつだってそういう風景にとりかこまれているのだから――。
その風景のなかで自分を生かす努力をしよう。・・・
今日は今日の出発があり、明日は明日の出発がある。
しかし、たいせつなのはいまだ。
今朝は今朝のいのちを一瞬、キラリと光らせて出発する。
「朝顔さん、こんにちは」といいながら――。」
(「からだ・こころ・たましい」)
・・