大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

7月7日 (4)

イメージ 1

イメージ 2

「最新 満洲寫真帖」          (*画像はかならずクリックして拡大!)
(大正写真工芸所・昭和13年10月発行)



この「満洲」の旅行案内を兼ねた写真集が発行されたのは昭和13年10月。
戦後、傀儡国家といわれた「満洲帝國」は、すでに建国されていた。


昭和6年(1931)9月18日   満洲事変勃発
昭和7年(1932)3月1日   満洲国建国宣言
昭和8年(1933)3月27日   国際連盟脱退
昭和12年(1937)7月7日  盧溝橋事件勃発
昭和12年(1937)12月13日 南京占領
昭和13年(1938)1月16日 日本政府「国民政府を対手とせず」声明


さて、この資料の「はしがき」をみると
満洲帝國」建国の一般的な理念をみることができる。

まず、日露戦争後につくられた軍歌「戦友」のフレーズが出てくる。
満洲」は「同胞流血の聖地」なのである。

旅順・大連を含む関東州租借権、長春以南の南満洲鉄道経営権、
鉱山採掘及び森林伐採権、土地商租権自由往来居住権および商工営業権などは、
「満蒙特殊権益」と呼ばれ、
日露戦争後1905年9月ポーツマス条約や同年12月の日清善後条約によって獲得され、
その後1915年日中条約などにより拡張されてきたものであり、
国費と英霊の犠牲においてかちとられ、
あくまで守るべき国家的遺産と考えられていた。
しかし、日本はもともと限定されていた権益を軍事力によって南北満洲に拡大していった。
やがて、特殊権益を越える「華北」にまで進出する。

「躍進また、躍進」は、
日本軍や満鉄の特急「亜細亜号」(上の写真)と重なってくるイメージである。
そして、大仰な目的とスローガンがつづく。
「王道楽土建設」、「王道政治」、「東洋平和」、「正義日本」、「聖業」・・・、
その一方で、
「資源開発、産業促進のため、堅実な移民を双手挙げて歓迎してゐるから、
人口の激増に悩む日本にとって天與の新天地であり、その豊富な宝庫を開き日満両国の繁栄を計る事は蓋(けだ)し天意にも副(そ)ふ所以(ゆえん)ではなかろうか」と結ぶ。

日本には日清戦争以来の中国蔑視、対中国優越感があり、
中国民族には国家統一の政治的能力が欠けているという偏見があったという。
日清戦争後、「文明」国になった日本の中国に対するイメージは「大国」から「弱小国」「野蛮」な国に変わり、
中国人に対する呼称も、
はじめの清国人から支那土人、チャンチャン、チャンコロという蔑称が普通となり、
中国人の弱さを侮るようになったという。
そして、中国を武力で簡単に制圧でき、
服従させるこができるという思いあがりを生み、
中国の抵抗力(抗戦能力)を過小評価することになる。

さらに、文中にあるように満洲は「多大の犠牲を払った日本の正義」、既得権益
これは、当時の日本人にとっておそらく違和感のない考え方であっただろう。

これらが、中国側の失地回復というナショナリズム
見えにくくしている、または見ようとしない理由の一つなのだろう。

満洲事変が起こるや、
一般の日本人の権益擁護論、自衛論は植民地願望となり、
さらに中国蔑視意識も加わり、
関東軍の行動や満洲建国を支持するような雰囲気が強くなっていったといわれている。

当時の日本人の中国認識や中国人観が、
意識されない「侵略」を許し、
日中戦争を避けることをむずかしくしていたのかもしれない。




・・・・・