大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「ダークナイト」

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ダークナイト」 (監督:クリストファー・ノーラン




ゴッサムという町は、混沌とした無法の世界である。




ジョーカー(ニヒリズムから生まれた悪の道化師)

平和をきらい、愛を笑い、世界が破滅していくことに悦びを感じる。
すべての正体を暴いてまわって楽しむ道化師。
(*ジョーカー<Joker>は、英語で「おどけ者」という意味で、
しばしば道化師が図案化される)
破壊衝動をつねにもち、日常の秩序ある世界を破壊し、
混沌とした世界、無秩序をつくる。
文字どおり、破壊のための火つけ役。火は破壊をあらわす。
目的も理由も理くつもなく、退屈をまぎらわすために犯罪や暴力に遊ぶ。
人の悲劇を楽しみ、誰にもある悪を暴くことに快楽を感じる。
何も信じない。慣習も権威もルールも通用しない。自由の極地。
お金はどうでもよく、自分の残忍さに悦びを見出す
世界の破壊者であると同時に、自己破壊・死への衝動もある。
他人のマスク(心に着ける服)をとり、隠された真実を暴くことにこだわるが、
不安を与えつづけるため、自分のマスク(メイク)はとらない
市民に悪をおかしかねないジレンマや命の二者択一に追いこみ、
それにどう反応し行動するかを、にやにやしながら観察し、楽しみ、笑う。
町に殺人の予告と脅迫をして市民に戦慄を与え、市民の心に挑戦する。
日常の世界から非日常の世界(もうひとつの世界)にみちびく。
また、市民に次々と憎悪を植えつけ、人格をのっとり、自分の支配下におく。
敵なる善や正義の反作用としての存在意義があり、
敵としての善や正義の登場により、いきいきしてきて力を発揮する。
憧れの悪のヒーローとして一部の市民を魅了する。
顔の傷は心の傷か。社会からの疎外感が強く、心の闇をもつ。
自分の過去を隠そうとするが、復讐と憎悪が心の奥にある。
悪のピエロだけに、どこか屈折していて哀しみを秘めている。
自然のままに、本能、欲望に生きるいたずらっぽい「永遠の少年」の面ももつ。
無意識、夢の世界に住む闇、影のシンボル?で、不死身。
ある意味では、規範を超えた心の闇、影の存在(真実)を知らせる救済者か。



バットマン(心の闇をもった正義のヒーロー)暗黒の騎士(ダークナイト

両親が目の前で悪の銃弾に倒れた心の傷をもち、
つねに復讐と正義の葛藤が心の中にある。
心の中の葛藤を克服するために遠い辺境の地へと旅に出たり、
犯罪者の心を知るために、自らも犯罪人になったりもした。
その後、恐怖に打ち克ち、復讐心をすて、悪と闘う。
自分自身の判断で(法にとらわれず)善悪を判断し、
悪の存在を前提とし、悪と闘う孤独なヒーロー。
法で裁けない悪をテクノロジーとメカの強大な力で制するが、
法をおかすため、法を守る市民の一部から批判される。
悪による町の危機にあって、一部の市民から救世主のように待望される。
正義のために犯罪をおかすことの葛藤もある
自分が優位で強い立場に立ったときに、弱く追いつめられた悪に対し、
憎悪むき出しに暴力的になることがあり、心の闇をもつ。(自覚あり)
仮面をとることは、
幻の、正体不明の正義のヒーローである存在を否定することになるため、
仮面をとれないジレンマに悩み、
正義の仮面と資産家という現実との間で葛藤する。



ハービー・デント(善悪表裏一体・二つの顔)光の騎士(ホワイトナイト

「法律」(規範、秩序)によって悪と戦い、世直しをしようとする行動派で、
一方で、悪を倒すためにメディアをたくみに利用する。
日常の道徳、倫理の世界に生きることから、
警察や市民の高い支持をえている現実世界の正義のヒーロー。
一方で、権力支配志向もある。
「光の騎士」の「光」は現実、日常性を意味する。
「闇の騎士」のバットマンの行為に理解を示す。
運を決めるコインによって判断を下す、善悪表裏一体のシンボル。
マフィアによって顔の半分に大やけどを負うことによって、
もともとあった二つの顔(ツーフェイス)をあらわにする。
心の深い傷が、善から悪への道を開くきっかけとなる。
たいせつなものの喪失を経て、世界への復讐心が芽ばえ、悪へ変身。
ジョーカーの導きによって、復讐と憎悪を植えつけられ、
コインによって死の制裁を判断する恐怖の処刑人に。
ジョーカーにとって、
誰の心にもひそむ悪への道があることを暴き、証明するための標的。




この映画は、俳優の演技(特にジョーカー役)や
メリハリのある展開とすぐれた脚本・映像・音楽などによって、
エンターテイメント映画としても成功しているが、
一方で、悪とはなにか、いまどういう時代なのかを鋭く問う傑作でもある。


悪の極地の魅力による誘惑は、どこにでもある。
アウシュビッツ、そして戦場での快楽としての数々の悪、・・・・・
目的も、理由もなく・・・・・
正義や善から悪へ移行することは、かんたんである。
憎悪や復讐心の応援によって、
誘惑に負け、そしてそのときの状況にしたがい、
ほんの少し、ひとまたぎすれば、
誰もがその悪の世界に入れることを、この映画が鋭く証明している。

闇や影としての「もう一人の自分」は、
すべての人間の心の奥底にある。




さて、この映画を見て、昔、読んだ1冊の本を思い出した。


ニヒリズムの仮面と変貌」
(ヘルマン・ラウシュニング著 福村出版 1973)より抜粋


ニヒリズムを認識すること、それがニヒリズムの克服の始まりでる。・・・
ニヒリズムは無価値化であって、・・・すべての「仮面を剥奪し」恣意として暴露し、いっさいの行為をひとつの終末に導いてゆく。それは独自の本質も形態ももたない。だがいかなるものの背後でも作用することができる。それは作用である、しかしそれ自体はなんらの存在をももたないのだ。・・・」

ニヒリズムの伝播には奇妙な恐るべき現象がともなう。
それはニヒリズムの影響のもとに人間を襲う願望であり、はずかしめ、「暴露し」、ひきずりおろし、汚し、破壊しようとする欲望である。
かつて見られなかったほどにいま人間は、憤激と憎悪感情に生き、報復と復讐をはたそうとする欲求に生き、暴露し、品位をはずかしめることにいだく喜びによって生きている。
すぐれたもの、高貴なもの、よりよきものを認めたがらぬ敵意によって生きている。
それは、他者、「敵」――そして他者はみな敵であり、もはや隣人ではない。――にたいしてのみならず、またおのれ自身にたいして向けられた解体と没落への衝動である。・・・
われわれの時代の特徴は、創造力としての憎悪、結合要素としての憎悪である。ヒットラーの徒党の共同体は憎悪共同体である、憎悪が愛にとってかわる。憎悪はいかにも新しそうな幻想をあたえる世界を創造する。・・・
愛することのできぬものは、根本において、希望をもたない人間である。
希望をもたないということは、空虚、非実体性と同義である。」

「創造性の仮面のしたで破壊力をふるうのがニヒリズムの本質である。」

ニヒリズムとともに出現するのはデーモンではなくて、無である。・・・
もはや葛藤も起こらず、悲劇的緊張への凝縮も浄化も許さぬ、不規則な無関係な反応と刺激につらなりに達するだけである。・・・」

ニヒリズムの本質は、すべての理想や真理を再検査するかわりに、これらのものを無価値化し、恣意的な仮定としてこれらのものを暴露し仮面を剥ぎとることにある。・・・・
ニヒリズム、それは浄化、カタルシスである。・・・・」

ニヒリズムは、破壊することによって、いわばもっと低い平面でも治癒作用をおよぼす。・・・・
それは破壊することによって、回復のための前提条件を生み出す。
それは霧を払い、迷いをさます作用をもつ。・・・・
それは人間を意味と価値のない、現実性のない現存在に追いやり、もはや逃げ道を残さぬ全面的な挫折の状況のなかを追いまわしながら、人間に客観的な法則的なるものの破棄か経験かの決断をくださせる。・・・」

「現代人にとってニヒリズムは、堪えることの可能な、しかもかれにとって経験可能な「悪」のただひとつの出現様式であるといいうる。
この悪は、悪に対立するものとしてはじめて経験可能な善の不可欠の相対概念である。・・・
悪のもつ害悪のひとつの本質は断片的性格である。悪はつねに、全体性を爆破し個別化の極地の断片性にまで到達する方向に作用する。・・・・・」

ニヒリズムは、人間的現存在の二律背反、二重存在性、亀裂、「人間が投げこまれて」いる分裂を認識させ、受容することができる。・・・」




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