大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「チェンジリング」

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チェンジリング」(監督:クリント・イーストウッド




この映画は単に、
暴力や腐敗した権力・組織との正義の闘い、
息子探しと「母は強し」の物語だったのだろうか。


人は、だれでも一生のうちで何回か
もし、自分があのとき、こうしていれば・・・・・
こんなことにはならなかったと思うときがある。

最愛の人が「さよなら」もいわず、
突然、いなくなったことが、
自分のそのときの対応と何らかのかかわりがあったように思えるとき・・・
その人のゆくえと最後を
しっかり自分の目で見とどけていない場合、
そして、死んだという確証がなければ、
やはり、生きているのである。
きっと、どこかで、別の世界で、
生きているにちがいない、
そして、いつかは帰ってくると。
これは、理くつではない。
現実にいたときよりも、
よりいっそう、その存在を身近に感じる。
心の中に、常に生きているのである。
その思いが、希望となり、救いとなることがある。
たとえ、周囲や権力がどう解釈しようと。

昔、日本にも「岸壁の母」がいた。

希望は、絶望的だが確証のない状況の中からでも、
いくらかの可能性があれば生まれる。

立ちつくし、長い沈黙のあとに、希望はみえてくる。
そして、ささやかな希望をバネとして強く生きることができる。

この映画の主人公の真っ赤な口紅が、強い意志と希望を示している。


一方、時代と運命のもとで、
人は何らかの心の傷やトラウマ、心の闇を背負いながらも、
闘い、生き続けなければならない。
主人公、
そして自ら「取替え子」(チェンジリング)を志願した子ども、
誘拐を手伝った少年、
最後に「聖しこの夜・・・」と歌いながら刑に臨んだ犯人・・・
これが、この映画のもうひとつのテーマなのかもしれない。
同じクリント・イーストウッド監督の
父親たちの星条旗」にも、かいまみることができる。

謎を残しながら刑の執行に服する犯人、
それを見つめる主人公を含めた関係者、
映画をみることで、それに立ち合ってしまう観客・・・・
どこか、すっきりしない重い気分が残る。

しかし、実話をもとに、
人間の闇の部分の哀しさ、やりきれなさと同時に、
一条の光(希望)をみごとに描いている作品だと思う。




チェンジリング (取替えっ子)とは、
イギリスやアイルランドなどヨーロッパ各地の民間伝承にでてくる、
妖精が人間の子ども(赤ん坊)をさらい、
代わりにおいていく妖精の子ども(赤ん坊)のことで、
おまじないを唱えたり、ある儀式をすると、
妖精がおいていった取替えっ子が消えて、
本当の子を返してくれるという。
この伝承にもとづいた映画のタイトルの中に、
いつか「本当の子を返してくれる」はずという
主人公の願いと「希望」がすでに折り込まれている。





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